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  • 2つの攻殻機動隊ー原作漫画からテレビ版アニメへー

    「攻殻機動隊」アニメ版の最終回が放映されましたね。円城塔の脚本は、ほぼ原作に忠実でした。あの膨大な台詞と傍注を簡潔にまとめた手際は鮮やか。良い幕切れでした。

    とは言え、原作漫画が完結してから30数年後のアニメ化。変わらないものもあれば、変わったものもあるはず。それを少しだけ深読みして読み解いてみます。(放映が終了しているのでネタバレありです。未見の方は、観てからお読みください。)

    テレビアニメ版に登場した「自然の風景」

    今回のアニメ版最終回で目についたのは、原作漫画には出てこない「自然の風景」。

    そもそも草薙素子が狙撃される場面から、一斉に周りの水鳥が飛び立つ様子が挿入されます。それは、もちろん部下を無駄死にさせてしまった荒巻部長の内心を映像的に表すためのアニメ技法かもしれませんが、そうであれば彼の顔をアップで撮るとか、そこに少し回想シーンを挿入する方が効果的でしょう。なぜ、あの場面で水鳥が一斉に飛び立つ場面が入ったのか、さらにそれを予感させるような林の中を吹き渡る風が描かれたのか。

    次いで、場面が変わり、ネット空間に誕生した人工知性体「人形遣い」と草薙素子の対話が始まります。

    宇宙の成り立ちや生物の進化を、量子的な揺らぎからマクロレベルでの決定論まで一望し、さらに自己複製化や自己分裂による平行宇宙論へと展開し、最終的に神話上の世界樹やカバラーのセフィロト、そして神道の天御柱のイメージを召喚する内容は、やはりスリリング。最終的に、草薙素子は、人形遣いの提案を受け入れて、人工知性体と合体=結婚し、新たな生命体に生まれ変わります。

    この場面で、テレビアニメ版が原作漫画版と異なるのは、いくつか自然の風景が挿入されていること。風がそよぐ草原やそこに放置された戦車の残骸が描かれ、さらに環境破壊で汚染されたかに見えるフラミンゴの群れなども挿入されます。

    原作漫画が、人形遣いと草薙素子の対話を広大な電脳空間の中で描いたのに対し、テレビアニメ版では、電脳空間とは異なる現実の自然風景の場面が意識的に挿入されています。

    さらなる相違

    「人形遣い」の姿も、原作漫画では無数の回線につながれた形で提示されますが、テレビアニメ版では回線が省略され、現実空間でも電脳空間でも回線のない単体として提示されます。

    そして最後、人形遣いとの融合を終え、相棒バトーの活躍で新たな擬体に入って生まれ変わった草薙素子が、バトーとの再会を約束して外の世界に出て行く場面。

    台詞は原作通り、「さあてどこへ行こうかしらね。ネットは広大だわ」のままなのですが、彼女の前に広がる風景がテレビアニメ版では原作と微妙に異なります。一見すると、ほぼ同じに見えますが、テレビアニメ版では、高層ビル群の夜景の向こうに広がる海が描き加えられています。これにより、草薙素子がネット空間ではなく、現実の世界にいることがより強調されます。

    原作漫画の時代背景

    こうした違いが意味するのは何でしょうか。

    原作が発表された1990年前後は、ウィリアム・ギブスンのサイバーパンクSFが一世を風靡した時代でした。また、1991年には、ティム・バーナーズ=リーがWWWを提唱し、まさにインターネットの黎明期でもありました。人工知能についても、日本では、第5世代コンピューター計画として並列推論型コンピューターの開発が進められ、超並列コンピューターの開発や論理プログラミングの設計、自然言語処理や音声・画像処理のプロトタイプが試みられていました。

    いわば、この時代は、電脳空間や人工知能が「来るべき未来」として夢見られていた時代だったわけです。

    その時代に発表された原作漫画の重点は、全身サイボーグでありながらもゴーストを持った人間であり続ける草薙素子の「進化の物語」でした。人間が、人工知性体と融合して飛躍的にその認識能力を拡大させ、電脳空間内を自由に動き回れるようになった時に何が起きるのか。こうした期待を残しながら幕を閉じたのが原作漫画です。

    だからこそ最後の場面で草薙素子の前に広がるのは、抽象的なネット空間をも象徴する高層ビル群の必要がありました。そして、この高層ビル群に象徴されるネット空間での草薙素子の活躍を描いたのが、押井守による「攻殻機動隊 Ghost in the Shell」とイノセンス、さらにこれに続くアニメシリーズでした。

    時代背景の相違点

    これに対し、30数年後のテレビアニメ版を取り巻く環境は大きく変わりました。

    いまやインターネットを基盤とするバーチャル世界は日常世界と変わらないほどのリアリティを持ち、生成AIの登場とロボット型AIや自律型AIの開発によって、人間とAIの境目が曖昧になり始めています。AIがさらに進化して、人間を凌駕するシンギュラリティの到来も真剣に議論されるようになりました。

    そんな今日の世界において、原作が描く人間と人工知性体との融合を通じた進化の物語を素直に受けとめることはできません。むしろ、そもそも人間とは何なのか、AIに代表される人工知性とどこが違うのかが真剣に問われなければなりません。

    このような原作漫画とテレビアニメ版を取り巻く時代環境の違いが反映されているのが、おそらくテレビアニメ版における「自然風景=リアルな現実」の挿入です。その背景にはこの物語の重心が草薙素子から人工知性体である「人形遣い」にひそかに移っているという事情があります。

    人形遣いの夢

    印象的な台詞があります。原作と変わらないのですが、人形遣いが草薙素子と融合する時に最後にもらす言葉です。

    これで私は真の生命体となる・・・
    流れる雲のようにうつろう・・・
    不確実で多様な宇宙の一部に・・・・・・・・・

    そもそも、人形遣いが草薙素子との融合を望んだのは、「多様性やゆらぎを持つため」でした。原作では、それは人形遣いという人工知性体のシステムの安定性確保や脆弱性の減少などいろいろと合理的な理由付けがなされています。

    しかし、草薙素子との融合によって死のリスクさえ生じるにもかかわらず、人形遣いがそれを望んだのは、こうした合理的理由ではなく、純粋に多様性やゆらぎを取り込むため、それによって不確実で多様な宇宙の一部に降り立つためだったと考えられないでしょうか。

    この人形遣いの台詞を説得力のあるものにするための仕掛けが、原作にはない形で挿入された自然の風景であり、水鳥の飛翔であり、さらには林の中を吹き抜ける風だったと考えると、テレビ版の物語は新たな相貌を見せてくれます。

    人工知性体にとっての「生」

    AIの最大の限界は、現実世界の中に存在しないということです。擬体を使って現実世界に降り立ち、精巧なセンサーを使って人間の五感が感じ取れる以上の感覚情報を収集できたとしても、それは所詮電子化されたデジタル情報でしかありません。その意味で、人工知能は世界から切り離され、閉じられた知性体です。

    これに対し、人間を含めた生物はこの世界に確実に存在し、刻一刻と変化していく環境を体感し、内と外を相互に浸透させ、さらにインタラクティブに対応することができます。この世界の中に開かれてあること、それが「生きる」ということです。

    これまでみてきたように、テレビアニメ版は、最後に主人公を草薙素子から人形遣いに変えました。そして、原作の「人間の電脳空間への進化」の物語を、人工知性体が多様性やゆらぎを持った生物にあこがれて、不確実な多様な宇宙の一部へと降り立つ物語に転換したのです。わかりやすく言い換えれば、ネット空間の中で神のような存在と化した人工知性体が、死のリスクを受け入れてまでも「この世界で生きることを選択した物語」への転換です。

    だからこそ、最後の場面では、無機的な都市空間の向こうに海が挿入されなければなりませんでした。ネット空間での高度の知性体を手にした草薙素子に見えるのが、広大なネット空間を象徴する高層都市群であったとすれば、「生命」を手に入れてこの世界に降り立った人形遣いにとって重要なのは、むしろ住み慣れた電脳空間の向こうに広がる夜の海のはずだからです。

    生成AI時代における「生」の意味

    こうしてみてくると、攻殻機動隊という物語はテレビアニメとして甦ることで新たな可能性を手に入れたようです。

    これからも、この物語は現代の最も先鋭的な課題である人工知能と人間の共生は可能かなど、様々な問題に示唆を与えてくれるでしょう。さらに、生成AIの時代に人間であることの意味や、生のあり方にも大切な導きを与えてくれると思われます。

    いくら生成AIが最適解を提供し、量子コンピューターが膨大な情報を一瞬に処理しても、人間を含めた生物がこの世界の中にあることの意味は変わりません。むしろこれを積極的に引き受け、五感と関係性をフルに活用する新しい生き方を切り拓いてくれるような気がします。これがテレビアニメ版のメッセージなのでしょう。

    ということで、第2巻のアニメ化も期待しています。

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  • ジョン・ヒューストン監督「火山のもとで」

    ヒューマントラストシネマ渋谷のジョン・ヒューストン監督特集上映。神話性をまとったまま世を去ったジョン・フォードやハワード・ホークスと異なり、80年代まで映画を撮り続けたジョン・ヒューストン監督の評価はあまり高くないように感じる。でも、彼が晩年に監督した「ワイズ・ブラッド(賢い血)」、「火山のもとで」「ザ・デッド」などは、いまだに新鮮なかがやきを保っている傑作である。今回の特集上映は、そんなジョン・ヒューストンの魅力を再発見する良い機会だと思う。

    まずは「火山のもとで」。言うまでもなく、マルカム・ラウリーの同名の傑作長編の映画化作品である。

    メキシコ・死者の日の一日の出来事を追う物語

    映画はアル中の元英国人外交官の1日を描く。

    彼は1年前に妻に去られ傷心の中で酒浸りの生活を送っている。その振る舞いは奇矯で時に常軌を逸する。例えば、赤十字のチャリティ・ディナーでドイツ人外交官に絡み挙げ句の果てに演壇に駆け上がって来たるべき戦争で多くの死者が出れば出るほど死者を輸送する鉄道会社は儲けることができると一席ぶち始めるのだ。そんな暮らしの中、彼の元を去った妻が戻って来る。喜ぶ外交官。彼は彼女を歓迎しようとするが過去の記憶がそれを許さない。実はかつて妻は彼の腹違いの弟と不実を犯したことがある。。。

    こうして物語は、外交官、妻、弟の三角関係を巡って展開していく。

    彼らは 微妙な緊張関係をたもちながらも一見すると仲良く死者の日の祭りに出かけ、さらに闘牛の見物に繰り出していく。しかし外交官はどうしても過去を拭い去ることができずに酒に走ってしまう。結局彼は、二人を置いてその場を離れ、怪しげな酒場に逃げ込む。酩酊した彼は、そこでなくしていたと思っていた彼女からの手紙を見つけるのだが怪しげなメキシコ人たちに絡まれ悲劇が訪れる。

    アルバート・フィニーの圧倒的な存在感

    マルカム・ラウリーの膨大な小説をわずか2時間にまとめたヒューストンの剛腕に改めて圧倒される。それを支えるのが主演アルバート・フィニーの強烈な演技。

    文学の素養も深い知識人の外交官。かつては英国海軍の艦長として第一次世界大戦でドイツの軍艦を撃沈して勲章を受けた勇者。弟からモナーク(専制君主)と呼ばれる強烈な個性の持ち主で、文明を捨ててネイティブ・アメリカンの居住地に移り住んだ17世紀のアメリカ人ブラックストーンに憧れるロマンチスト。一方で、若く美しい妻に逃げられ、自暴自棄から酒に溺れてアル中になり、手が震えて靴下も自分で履けず、酩酊して路上で昏倒する情けない男。

    この複雑な人物をアルバート・フィニーが説得力を持って演ずる。これが映画を活気づける。

    戦争と暴力と支配の予感

    そして、随所に語られる戦争と暴力と支配の予感。

    冒頭、ドイツ外交官との会話の中で、メキシコのある政党がナチスから資金提供を受けて勢力を伸ばしている疑惑が語られる。そもそも時代設定は1938年。ナチスはオーストリア併合を遂げて領土拡張を着々と続ける一方、英仏とはミュンヘン協定を締結して束の間の平和を維持した時代である。スペインでは、フランコが率いる反乱軍が人民戦線政府に壊滅的な打撃を与えてカタルーニャへの大攻勢を準備しつつあった。外交官の弟は、スペイン内戦に義勇兵として参加したが情勢の悪化に伴いメキシコに戻ってきたという設定で、彼の口から各国の義勇兵の悲惨な死が語られる。そもそも主人公の外交官も、かつてドイツ人将校7名を戦艦のボイラーに投げ込んで殺害したとうそぶいているのである。

    さらに3人が旅の途中で見いだすのは、惨殺され道ばたに放置されたインディオの死体。殺したのはおそらく地元の警察とも内通しているギャングたちであり、インディオが持っていた金貨は、ナチ系の政党の党員が略奪する。

    このような時代の空気と生々しい暴力を描き出すことで、ジョン・ヒューストンは、男女の三角関係の物語に厚みを加える。外交官の苦悩の背景には、こうした時代の重苦しさや、圧倒的な暴力の前に無力な西洋文明にそれでもしがみついてしまう生がある。

    死者の日とマリア信仰がもたらす聖性

    しかし、この映画の最大の魅力は、物語の舞台となった死者の日そのものにあるだろう。

    言うまでもなくメキシコの死者の日は骸骨に仮装した者たちが町中に繰り出すメキシコ最大の祭りである。人々は、賑やかな屋台や遊園地に繰り出して楽しみつつ、束の間、死者をこの世に召喚し、彼らの存在を感じつつ追悼する。映画は骸骨のマリオネットたちによる死者の踊りで幕を開け、そのまま街中にあふれる骸骨や髑髏を映し出す。さらに映画は、マリアに祈りを捧げるメキシコ人医師のエピソードを挿入することで、この物語に神秘性を導入する。

    原作がキリスト教信仰やカバラーの神秘主義に色濃く影響されていたように、この映画もメキシコの土俗宗教を画面に氾濫させることで、物語を彼岸的なものにしている。だからこそ、陰惨で理不尽な暴力で幕を閉じるこの映画の悲劇的な結末に、どこか聖性が感じられるのである。

    今回、大画面で改めて見直し、この映画の魅力を再発見した。こんな映画が、インディアナ・ジョーンズやスター・ウォーズやゴースト・バスターズで盛り上がっていた1984年に公開されていたのだ。もしかしたら、公開当時は昔の巨匠の時代遅れの映画だったかもしれないけれど、40年を経てもなお新しさを感じるのはさすがである。

    暗闇を駆け抜ける白馬の圧倒的な存在感を目撃するためにも、ぜひ映画館でみてほしい一作。

    ===原作購入===

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