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  • ガス・ヴァン・サント監督「ドラッグストア・カウボーイ」

    ドラッグストア・カウボーイは1989年に制作されたガス・ヴァン・サント監督の2作目の作品。主演に「アウトサイダー」や「ランブルフィッシュ」で鮮烈な印象を残したマット・ディロンを起用したインディペンデント作品。確かに、冒頭からインディペンデントの気配が濃厚な魅力的作品である。

    ドラッグストア・カウボーイ | スタッフ・キャスト・配信・作品情報 - 映画ナタリー

    ポートランド三部作の2作目

    物語は、ポートランドを舞台に展開する(ちなみに、「マイ・プライベート・アイダホ」や本作を含めて、初期の三作をポートランド三部作と呼ぶそうだ。)。

    ボブ(=マット・ディロン)とダイアン(=ケリー・リンチ)の夫婦は麻薬に溺れ、仲間のリック、ナディーンと共に、ドラッグストアや病院を襲撃する日々を送っている。しかし、地元の刑事に目をつけられて街に居づらくなり、ボブは旅に出ることに決める。旅先でもドラッグストアや病院を襲撃する彼ら。しかし、徐々に歯車が狂い始めため、ボブはドラッグから足を洗って更正の道を歩もうとする。ボブは、本当にまともな生活を送れるようになるのだろうか。。。。

    「孤児」「精神的父」「ストリート」という主題群

    この作品にも、ガス・ヴァン・サント監督の基本的な主題がよく出ている。

    ボブには父親はおらず、母親との仲も疎遠である。しかし、かつて彼をドラッグの世界に導き、精神的な師でもあるトム・マーフィー神父(なんと、ビート・ジェネレーションの代表的作家ウィリアム・バロウズが出演している!)との長い付き合いは続いている。この作品でも、「孤児」や「精神的父」の主題は健在である。

    そして、「ストリート」の主題。タイトル通り、この映画ではジャンキーの生活がリアリティ豊かに描かれる。店内で仲間が騒ぎを起こして店員が気を取られている間に店に忍び込んでドラッグを盗み取る手口。これは病院でもより大がかりに反復される。あるいは、警察の捜査を逃れるためのドラッグの隠し場所。そしてストリート上でのドラッグの売買。ガス・ヴァン・サント監督は、こうしたジャンキーの生態を、少々のユーモアも交えながら語り継いでいく。

    インディペンデント作品としての魅力

    このように紹介すると、この映画は普通の映画のように見えるけれど、そこはインディペンデントを目指すガス・ヴァン・サント監督、いろいろな仕掛けを施している。

    最大の売りは、もちろんウィリアム・バロウズを起用したことだろう。

    ジャンキーやヒッピーにとっては神様的な存在であるこのビート・ジェネレーション作家が登場するだけで、どこか画面が神話性を帯びる。ただ彼が街中を歩き、杖で過去の街の記憶を語るだけの場面がもたらす強烈なインパクト。あるいはドラッグについて蘊蓄を語る場面の奇妙な文学性。ハーバード大学卒業生で筋金入りのジャンキーが語る言葉には妙な説得力がある。

    「ボニーとクライド」ものへのオマージュ?あるいはパロディ?

    それ以上に面白いのは、この映画がいわゆる犯罪逃避行もののパロディになっている点である。

    アメリカ映画には、「ボニーとクライド」ものとも言うべきカップルの逃避行を扱った一連の映画がある。ペンの「俺たちに明日はない」、ラングの「暗黒街の弾痕」、アルトマンの「ボウイ&キーチ」あるいはニコラス・レイの傑作「夜の人々」まで、カップルが犯罪を繰り返しながら逃亡する物語はアメリカ映画の定番の1つだと言って良い。特に「俺たちに明日はない」はアメリカン・ニューシネマの先駆けとして、ガス・ヴァン・サント監督たちの世代に大きな影響を与えている。

    この映画の舞台設定は、確実にこの「ボニーとクライド」ものの系譜に入ると言えるだろう。仲間がいるとは言え、ボブとダイアンは、ドラッグ・ストアを襲撃しながら逃避行を続けるカップルであり、互いに深く愛し合っている。しかし、この映画は見事に先行作品とは異なる。犯罪の場面は描かれるけれど、それは凶悪犯罪というよりも、ジャンキーがドラッグほしさに冒してしまうもので、オフビートののんびりした襲撃である。

    むしろ物語の中心は、「犬について話すな」とか「ベッドの上に帽子を置くな」というジンクスでボブは異常なこだわりを見せる。そして、ジンクスが破られて物事がうまく行かなくなると、ボブはますますその呪縛にはまっていく。そこには、ボニーとクライドもの切迫感もなければ世界で二人っきりという孤立した愛の世界もない。そして、監督は、さっさとボブを逃避行から抜け出させて、更正プログラムに入れてしまう。今風に言えば、この映画は「ボニーとクライド」ものを脱構築しようとした作品なのだろう。

    ホーム・ムービー画面の懐かしさ

    もう一つの魅力は、印象的に挿入される回想場面。

    粗い粒子の画像、手持ちカメラで手ぶれし、時にはピントも外れながら、仲間たちのふざけた様子が映し出される。それはまるでホーム・ムービーのような懐かしささえ感じられ、仲間たちは皆リラックスしている。さらに、ボブたちが普通の家庭の幸福から見放された孤児的存在であるという事実が、このホーム・ムービーの手触りのある場面を一層いとおしくさせる。インディペンデントを志したことのある映画小僧にとってはたまらない映像である。これもガス・ヴァン・サント監督のマジックの1つなんだろう。

    新作も公開!

    最近の「追憶の森」や「ドント・ウォーリー」はあまり良い出来ではなかったけれど(「追憶の森」はカンヌでの上映の際に観客からブーイングを受けた!)、新作の「デッドマンズ・ワイヤー」も公開されることだし、たまにはガス・ヴァン・サントのインディペンデント精神あふれる初期作品を見直すのも悪くない。

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  • ガス・ヴァン・サント監督「マイ・プライベート・アイダホ」

    長年名画を紹介し続けてきたシネスイッチ銀座が閉館する。若い頃から多くの名画をこの映画館で観てきた者としては本当に残念だけど、配信サービスやYouTubeで世界中の映画に簡単にアクセスできるようになった現在、こうした名画座も何度目かの再編の時期に来ているのだろう。感謝の意味を込めて、ガス・ヴァン・サントの初期作品デジタル・リマスター版上映会に駆けつける。

    (以下、過去作品なのでネタバレありです。ご注意を!)

    リバー・フェニックスが主演男優賞を受賞した初期の傑作

    まずは「マイ・プライベート・アイダホ」。

    1991年の作品で、リバー・フェニックスがヴェニス国際映画祭と全米映画批評家協会賞で主演男優賞を受賞している。「スピード」でブレイクする前のキアヌ・リーブスが共演。当時のガス・ヴァン・サントはインディペンデント系の映画監督という位置づけだったけど、この豪華な俳優陣をみる限り、メジャーでも十分にやっていける実力を持っていたし、実際、そうなった。「ドラッグストア・カウボーイ」と並んで、初期の傑作の1つ。

    「孤独な青年の成長」という主題

    ガス・ヴァン・サントの作品にはいくつかの共通点がある。

    基本的な主題の1つが社会から疎外された青年(多くの場合、孤児)の孤独と成長の物語。彼は何らかのトラウマを抱えているが、父のような存在である精神的指導者と出会い、彼または彼女の導きによって社会復帰を果たそうとする。そして指導者は、役目を終えたかのように突然の死を迎える。「グッド・ウィル・ハンティング」、「小説家を見つけたら」、「ドント・ウォリー」、「永遠の僕たち」などの作品に繰り返されるテーマ。もしかしたら、それは彼の個人的な体験を踏まえているのかもしれない。

    マイ・プライベート・アイダホも同じ系列の作品である。

    主人公のマイク(=リバー・フェニックス)は、父親がおらず、母親も失踪したために年が離れた兄に育てられたが家出し、今はストリートの男娼として暮らしている。彼は精神的なストレスが生じると突然の睡魔に襲われて昏倒するナルコレプシーに悩まされており、ドラッグにも手を染めて自堕落な生活を送っている。

    そんな中、マイクは男娼仲間で親友のスコット(=キアヌ・リーブス)と再会する。スコットは、実はポートランド市長の息子で裕福な家庭の出身だが父親に反発してストリート暮らしをしていたのだった。二人は、ある日、スコットのバイクに乗って、マイクの故郷アイダホに向けて旅立つ。目的はマイクの母親との再会。果たしてマイクは母親を見つけることができるのだろうか。。。

    カウンター・カルチャーの魅力

    インディペンデントの自由さもあり、この映画にはショッキングな主題が幾重にも盛り込まれている。男娼の生活、ストリート暮らしの若者コミュニティの狂騒、ゲイ・カルチャー、ドラッグ、ナルコプシー、強盗、そして近親相姦。。。

    ガス・ヴァン・サントは、こうしたカウンター・カルチャー的生き方が好きなのだろう。そこに描かれる世界は、破綻してめちゃくちゃで悲惨に見えるかもしれないが、住人はどこか楽しそうである。彼らは、現在を享楽的に過ごしているだけでなく、精神的な指導者として詩人かつ盗人のボブを慕い、廃屋となったホテルに集まっては騒ぐ。そこには何かコミュニティの一体感が感じられる。何ものにも捕らわれない自由な生活へのあこがれ。たとえそれが悲劇に終わるとしても、束の間、登場人物たちはその自由を謳歌し、自らを解放する。これを描くガス・ヴァン・サントの手つきは限りなく愛おしい。

    言うまでもなく、これを支えるのが、リバー・フェニックスのどこかこの世から遊離した狂気の演技。さすがヴェニスの主演男優賞を受賞しただけあって、強烈な印象を残す。思えば、彼は80年代のイコンの一人だった。

    アメリカの原風景

    そして、作品のテーマでもあるアイダホのどこまでも続く道。

    波のようにうねりながらも、一直線に山に向かって進んでいくハイウェイが、何度も登場する。時には、マイクが幻視する故郷の風景として、時には実際に二人を取り囲む風景として。アメリカ中西部の原風景とも言えるこの場面はやはり強烈だ。

    マイクがナルコプシーの発作に襲われる度に幻視する風景も印象的である。

    まだ一歳だった彼が覚えているはずもない母と自宅。あるいはまだ会っていない母の膝に頭を乗せて眠る自分。何も問題はないと語りかける母、泣いている幼児の横で踊り続ける母・・・・。こうした母の記憶に、アイダホの風景や激流を遡るサケの群れが唐突に挿入される。これはマイクの心象風景なのか、それとも実際に経験した風景の記憶なのか。この場面が入ることで、映画は豊かに膨らんでいく。

    2つの「父の死」

    映画は、マイクの精神的父親であるボブと、スコットの実の父親の葬式で幕を閉じる。

    スコットの父親は、ポートランド市長として成功し、その葬式は正式かつ厳粛に行われる。それを横目に見ながら、ボブを父親と慕っていた若者たちは、ボブを入れた棺桶を埋葬するでもなく、その周りで歌を歌い、踊り、挙げ句の果てに棺桶の上に折り重なる。その祝祭的とも言える埋葬を横目で見るスコット。彼も一時はボブを父と仰ぎ、その生き方に学んだが、結局、ボブを切り捨て、エスタブリッシュメントとしての生活に戻ってきた。そこにどんな想いがあるかを映画は明示しないが、二つの埋葬を対比させることでそれは明らかだ。

    スコットの視点から見れば、この映画は、父への反発から束の間の無軌道な生活を謳歌した若者が、実の父の死と、精神的な父の象徴的な殺害を経てエスタブリッシュメントに戻り、良き妻を得て大人になるという「放蕩息子の帰還」あるいは「父殺し」の物語である。

    マイクの視点から見れば、近親相姦で生まれた子どもという呪われた生に捕らわれ、実際にナルコプシーの発作という重荷を背負いながら、ストリートの男娼という底辺の生活を余儀なくされた者が、何とか母に再会して自分を肯定してもらい、生をやり直そうとして果たせなかった物語となる。マイクの物語は一見すれば悲惨なものに見えるが、ボブを指導者とするコミュニティと、彼らが拠点とする廃墟のようなホテルにおける祝祭感覚が、これを救っている。

    救済はあるのだろうか

    映画の最後、再びマイクはアイダホのどこまでも続く一本道に立ち、ナルコプシーの発作で倒れる。通りがかったおんぼろトラックに乗った二人は、マイクを助けようとせず、持ち物と靴を奪って立ち去る。やがて一台の車が止まり、マイクを助手席に乗せて立ち去る姿がロングショットで映し出される。マイクは、果たしてこの後どのような生を歩んでいくのか。ハッピィエンドにはほど遠い結末だが、ロングショットで捉えられたアイダホのどこまでも続く荒野の一本道と、その先に控える山嶺からは、どこか救済の予感も感じられる。

    久しぶりに90年代の名作を大スクリーンで見直すのも悪くない。

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