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  • ジョン・ヒューストン監督「ワイズ・ブラッド(賢い血)」

    生誕120年記念ジョン・ヒューストン監督特集の目玉は、なんと言っても今回劇場初公開となる「ワイズ・ブラッド」。私は、アメリカに住んでいた頃にリバイバル上映を観ているんだけど、その時の衝撃は忘れられない。

    「ワイズ・ブラッド」との出会い

    当時の私は、ヒューストンの「黄金」、「アフリカの女王」、「アスファルト・ジャングル」、「白鯨」、「マルタの鷹」、「赤い風車」などの主要作品は観ていたし、「勝利への脱出」や「女と男の名誉」の劇場公開に間に合った世代なので、ある程度ヒューストン監督作品のイメージは持っていた。しかし、「ワイズ・ブラッド」はそんな予想を遙かに上回る傑作であり、怪作だった。

    映画の隅々にまで張り巡らされた緊張感と切迫感、それにもかかわらずしっかりと保たれているユーモア、最初から最後まで一分の隙もなく突き進んでいく狂気、そして聖性。映画館を出たあと、あわてて当時未見だった「火山のもとで」や「ザ・デッド/ダブリン市民より」などの後期の文芸作品を配信サービスで探したことを覚えている。それは、ハリウッドの職人監督のイメージとはほど遠い作家性と深い思索を湛えた作品群だった。

    原作者フラナリー・オコナー

    言うまでもなく、「ワイズ・ブラッド」は、ディープ・サウスと呼ばれるアメリカ南部のカトリック女性作家フラナリー・オコナー原作の映画化である。ストーリーも登場人物もほぼ原作を踏襲している。

    フラナリー・オコナーという人は、敬虔なカトリック教徒だけど、彼女のエッセイ集「秘儀と習俗」を読むと分かるように、その作品は決して「敬虔」でも「篤信」でもないし、一般的な意味での「救済」や「赦し」も描かれていない。むしろそこには、神の教えに背き、あるいは神の恩寵からほど遠い、愚かで貧しく、背信や暴力や痛みに耐え、時には常軌を逸した狂気に走る人々が描かれる。

    でもその話は決して悲惨にはならず、ユーモアも交えながらストーリーがどんどん進んでいき、最後にはどこかに神の視線を感じてしまうと言う不思議な作家である。彼女自身、自分の小説はカトリックの信仰に深く裏打ちされているけれど、カトリックの教え自体を盛り込むつもりはないと明言している。だからこそ、その小説には神の臨在が感じられるのである。

    映画「ワイズ・ブラッド」の魅力

    そんな「ワイズ・ブラッド」を名匠ヒューストンが映画化したのだから、面白くないわけがない。

    映画は、何かに取り憑かれたかのような若者がハイウェイでヒッチハイクしている光景から始まる。荒涼としたアメリカ南部の荒野。軍服と背負ったから若者は退役軍人だと分かる。何とか車を捕まえてたどり着いた我が家は既に廃屋となっており、中に残っているのは母親の箪笥だけ。若者は箪笥に「これはヘイズのものだ。盗んだ者は地の果てまで追って殺す」というメモ書きを残して家を後にする。そして汽車に乗り込み、見知らぬ町で「キリストのいない教会」を立ち上げたと称し、説教師として伝道に乗り出す。。。

    とにかく主人公ヘイズの顔がいい。

    ほとんど表情を変えず、まさに狂信的という感じで人々に教えを説く。そして何かやるべきことを見つけると、これに向かって脇目も振らず一直線に進んでいく。彼にとっては、女と寝ることも、「キリストのいない教会」の説教をすることも、あるいは「修行」のために靴の中に石ころを入れて痛みに耐えながら歩くことも、さらには人を殺すことすらも、すべてあらかじめ自身に課されたミッションでもあるかのように、何の迷いもなく遂行していく。

    その揺らぎのなさは、もしかしたらこの世を超越した何かなのかもしれない。

    豊潤な映画世界

    そしてヘイズが心から愛するポンコツ車。

    どうして走れるのかよく分からないほどの廃車寸前の車なのに、ヘイズは心からこの車を愛し、その屋根に上って説教を行い、そしてこの車に乗って旅を続けようとする。ヘイズの思い通りにならずに突然エンストし、エンジンから煙や水蒸気を吹き出し、さらにラジエーターからは冷却水がぼとぼと漏れ出していくというとんでもない車で、しかもヘイズの荒っぽい運転でそこら中にぶつかるにもかかわらず、この車が動き出す度に画面が活性化する。これもヒューストン・マジックの1つ。

    そして一癖も二癖もある登場人物たち。

    町の男たちすべてを相手にする気の良い肥満の娼婦、盲目の説教師とその娘、ゴリラの着ぐるみに異常に執着してその姿で町を徘徊する孤独な若者、ヘイズの教えをパクって一儲けしようと企む偽予言者、あるいは何の理由もなくヘイズに嫌がらせする町のシェリフなどなど。彼らもまた、ヘイズ同様に、何かに取り憑かれたかのように世間の常識から外れている。

    ただし、それは聖性とはほど遠い、世俗にまみれた世界である。しかし、その過剰さと強靱さが、ヘイズの一徹な反キリスト教的「布教活動」と交わることで、世界にゆがみをもたらし、逆説的に神の存在を浮かび上がらせる。

    「ワイズ・ブラッド」が意味するものとは?

    多分、今の日本社会でこの物語を理解しようとする一番良い方法は、これを「宗教2世」の悲劇の物語と読み替えることだろう。

    映画で多くは描かれないけれど、ヘイズの祖父も説教師だった。ヘイズは祖父の説教に立ち会い、それが終わるまでトイレにも行けずに座り続けて失禁してしまうと言う過酷な体験を経ている。この経験が、彼を「キリストのいない教会」という矛盾に満ちた教えに向かわせたという解釈は可能である。

    あるいは、人によっては「過酷な戦場でトラウマを負った復員軍人」の物語に読み替えるかもしれない。

    原作が想定している戦争は第二次世界大戦だが、映画の舞台設定ではそれがベトナム戦争のようにも見える。ヘイズ自身、人にどこの戦場で戦ったのかを聞かれても、知られたくないと言って答えない。その反応は、神の存在など全否定したくなるような残忍で過酷な戦場体験を想像させる。ヘイズが説教の中で繰り返し「キリストによって流された血などないし、それによる救済もあり得ない」と語って血にこだわるのも、もしかしたら戦場で流された多くの血の記憶が反響しているのかもしれない。

    終わりに

    しかし、こんな様々な解釈が虚しくなるぐらい、この映画は圧倒的な映像と音響に満ちている。奇妙な人々の奇妙な行動と奇妙なオブジェ。奇妙な言動。普通の人のように見えて、すべてが少しずつずれている世界。そして、この重くシリアスな物語をあざ笑うかのように軽やかで軽快な劇伴が流れ、それに追い打ちをかけるようにポンコツ車が迷走し、煙を吹き出し、突然エンストを起こして停車し、さらには無人のまま緩やかに草原を横切って池に突入する。

    たぶん、この映画は、観るのではなく、体験するものなのだろう。ぜひ映画館で観てほしい傑作です。

    ===原作購入===

  • ジョン・ヒューストン監督「火山の下で」

    ヒューマントラストシネマ渋谷のジョン・ヒューストン監督特集上映。神話性をまとったまま世を去ったジョン・フォードやハワード・ホークスと異なり、80年代まで映画を撮り続けたジョン・ヒューストン監督の評価はあまり高くないように感じる。でも、彼が晩年に監督した「ワイズ・ブラッド(賢い血)」、「火山の下で」「ザ・デッド」などは、いまだに新鮮なかがやきを保っている傑作である。今回の特集上映は、そんなジョン・ヒューストンの魅力を再発見する良い機会だと思う。

    まずは「火山の下で」。言うまでもなく、マルカム・ラウリーの同名の傑作長編の映画化作品である。

    メキシコ・死者の日の一日の出来事を追う物語

    映画はアル中の元英国人外交官の1日を描く。

    彼は1年前に妻に去られ傷心の中で酒浸りの生活を送っている。その振る舞いは奇矯で時に常軌を逸する。例えば、赤十字のチャリティ・ディナーでドイツ人外交官に絡み挙げ句の果てに演壇に駆け上がって来たるべき戦争で多くの死者が出れば出るほど死者を輸送する鉄道会社は儲けることができると一席ぶち始めるのだ。そんな暮らしの中、彼の元を去った妻が戻って来る。喜ぶ外交官。彼は彼女を歓迎しようとするが過去の記憶がそれを許さない。実はかつて妻は彼の腹違いの弟と不実を犯したことがある。。。

    こうして物語は、外交官、妻、弟の三角関係を巡って展開していく。

    彼らは 微妙な緊張関係をたもちながらも一見すると仲良く死者の日の祭りに出かけ、さらに闘牛の見物に繰り出していく。しかし外交官はどうしても過去を拭い去ることができずに酒に走ってしまう。結局彼は、二人を置いてその場を離れ、怪しげな酒場に逃げ込む。酩酊した彼は、そこでなくしていたと思っていた彼女からの手紙を見つけるのだが怪しげなメキシコ人たちに絡まれ悲劇が訪れる。

    アルバート・フィニーの圧倒的な存在感

    マルカム・ラウリーの膨大な小説をわずか2時間にまとめたヒューストンの剛腕に改めて圧倒される。それを支えるのが主演アルバート・フィニーの強烈な演技。

    文学の素養も深い知識人の外交官。かつては英国海軍の艦長として第一次世界大戦でドイツの軍艦を撃沈して勲章を受けた勇者。弟からモナーク(専制君主)と呼ばれる強烈な個性の持ち主で、文明を捨ててネイティブ・アメリカンの居住地に移り住んだ17世紀のアメリカ人ブラックストーンに憧れるロマンチスト。一方で、若く美しい妻に逃げられ、自暴自棄から酒に溺れてアル中になり、手が震えて靴下も自分で履けず、酩酊して路上で昏倒する情けない男。

    この複雑な人物をアルバート・フィニーが説得力を持って演ずる。これが映画を活気づける。

    戦争と暴力と支配の予感

    そして、随所に語られる戦争と暴力と支配の予感。

    冒頭、ドイツ外交官との会話の中で、メキシコのある政党がナチスから資金提供を受けて勢力を伸ばしている疑惑が語られる。そもそも時代設定は1938年。ナチスはオーストリア併合を遂げて領土拡張を着々と続ける一方、英仏とはミュンヘン協定を締結して束の間の平和を維持した時代である。スペインでは、フランコが率いる反乱軍が人民戦線政府に壊滅的な打撃を与えてカタルーニャへの大攻勢を準備しつつあった。外交官の弟は、スペイン内戦に義勇兵として参加したが情勢の悪化に伴いメキシコに戻ってきたという設定で、彼の口から各国の義勇兵の悲惨な死が語られる。そもそも主人公の外交官も、かつてドイツ人将校7名を戦艦のボイラーに投げ込んで殺害したとうそぶいているのである。

    さらに3人が旅の途中で見いだすのは、惨殺され道ばたに放置されたインディオの死体。殺したのはおそらく地元の警察とも内通しているギャングたちであり、インディオが持っていた金貨は、ナチ系の政党の党員が略奪する。

    このような時代の空気と生々しい暴力を描き出すことで、ジョン・ヒューストンは、男女の三角関係の物語に厚みを加える。外交官の苦悩の背景には、こうした時代の重苦しさや、圧倒的な暴力の前に無力な西洋文明にそれでもしがみついてしまう生がある。

    死者の日とマリア信仰がもたらす聖性

    しかし、この映画の最大の魅力は、物語の舞台となった死者の日そのものにあるだろう。

    言うまでもなくメキシコの死者の日は骸骨に仮装した者たちが町中に繰り出すメキシコ最大の祭りである。人々は、賑やかな屋台や遊園地に繰り出して楽しみつつ、束の間、死者をこの世に召喚し、彼らの存在を感じつつ追悼する。映画は骸骨のマリオネットたちによる死者の踊りで幕を開け、そのまま街中にあふれる骸骨や髑髏を映し出す。さらに映画は、マリアに祈りを捧げるメキシコ人医師のエピソードを挿入することで、この物語に神秘性を導入する。

    原作がキリスト教信仰やカバラーの神秘主義に色濃く影響されていたように、この映画もメキシコの土俗宗教を画面に氾濫させることで、物語を彼岸的なものにしている。だからこそ、陰惨で理不尽な暴力で幕を閉じるこの映画の悲劇的な結末に、どこか聖性が感じられるのである。

    今回、大画面で改めて見直し、この映画の魅力を再発見した。こんな映画が、インディアナ・ジョーンズやスター・ウォーズやゴースト・バスターズで盛り上がっていた1984年に公開されていたのだ。もしかしたら、公開当時は昔の巨匠の時代遅れの映画だったかもしれないけれど、40年を経てもなお新しさを感じるのはさすがである。

    暗闇を駆け抜ける白馬の圧倒的な存在感を目撃するためにも、ぜひ映画館でみてほしい一作。

    ===原作購入===

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