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  • 映画月評(2026年9月)

    SNSに掲載した映画・テレビ評をまとめました。本当はブログに本格的に展開したかったけど、時間がないのでご容赦ください。

    ロビーナ・ローズ監督「ナイトシフト」

    サリー・ポッター監督の「ザ・ゴールド・ディガーズ」のついでというと失礼だけど、同時公開されている「ナイトシフト」を観る。1981年の作品。

    ロンドンのとあるホテルのレセプション女性と、そこを訪れ、あるいは通過していく宿泊客やスタッフたちを幻想的に描いた作品。

    特に何か事件が起きるということもないけれど、宿泊客もスタッフも一風風変わりで謎めいている。それを赤と黒を基調とした美しい画面構成と深い闇に満ちた映像で綴っていく。主演女優は、英国パンクカルチャーの象徴のジョーダン。

    サッチャー政権下の閉塞感の中、カウンターカルチャーとしてのパンクが花開き、90年代に世界を席巻するYBAアーチストたちが活動を開始し、映画でもニコラス・ローグやアラン・パーカー、テリー・ギリアム達が新しい英国映画の流れを作り始めていた。

    そんな時代の雰囲気を感じさせる作品。

    サリー・ポッター監督「ザ・ゴールド・ディガーズ」

    「オルランド」で性と時間と空間と階級を越境する不思議な存在を描いたサリー・ポッター監督の初監督作品。自ら無神論者であり、アナーキストであると公言する監督の、ラディカルでありながら懐かしく、戦闘的でありながらユーモアに満ちあふれた傑作。

    映画は断片的なストーリーで構成される。金融資本に絡め取られるようにして男を翻弄し金を稼ぐ美女。チャップリンの黄金狂時代を彷彿とさせる金鉱探しの一家。謎めいた男たちの集団が夜の闇の中で美女をつけ回すかと思えば、紳士淑女が華麗に舞う舞踏会が映し出される。

    まるで成人女性版の不思議な国のアリスのよう。ただしアリスが迷い込む世界は、記号と言語ではなく、金融資本と女性の商品化が極限まで追求された資本主義社会。そこで女たちは、選別され、愛玩され、搾取される。そして最後に訪れる女たちの反乱とカタルシス。。。。

    こんなすごい映画をサッチャー政権下で新自由主義に基づく経済改革が強行され、文化闘争の名の下に芸術助成が大幅に見直されていた時代に完成させたポッター監督とそのチーム(全員女性!)には、ただただ頭が下がる。今みても、その輝きが失われない傑作。

    上映終了後の監督インタビュー。インタビューアーは、月永理絵さん。

    いろいろと発見はあったけれど、最も印象に残ったのは、この映画が公開当時、ジャーナリズムからほぼ黙殺され、挙げ句の果てに徹底的に批判されたことに対する監督のコメント。

    ポッター監督は、特に気にすることもなく、淡々と映画が理解されなかったことは残念だが、時を隔てて徐々にこの映画が理解され、現在では高く評価されたことをうれしく思うとと述べたあとで、「映画の素晴らしい点は、時を超え、空間を越えて、人と人を結びつける力があることです。だからこそ、今、私は英国にいながら、日本のユーロスペースの観客の皆さんと、このように対話できるのです。それがとてもうれしい。」とコメントする。

    すべてを包み込むような優しい笑顔を絶やさず、決して非難めいた発言をせずに、淡々と自作を語りながら、その奥に深い洞察とクリエイティビティを感じさせるポッター監督のたたずまいが印象的でした。

    エドワード・ヤン監督「恐怖分子」

    エドワード・ヤン監督の3作目。この映画で台湾ニューウェイブは決定的に映画史を変えたと言っても良い傑作。もちろん、エドワード・ヤン監督の名前を世界に知らしめた作品でもある。

    今みてもまったく色あせることのない完成度。銃声に始まり、銃声に終わる映画で、ノワールな気配が濃厚に立ちこめる中、複数の物語が錯綜する。ボーイ・ミーツ・ガールの物語であり、夫婦の葛藤と三角関係の物語であり、大組織における友情と裏切りの物語であり、若者の反抗と犯罪の物語であり、さらにハーフとしての自分を持て余した少女の反乱の物語や徴兵を忌避しつつモラトリアムに生きる青年の物語でもある。

    これを完璧とも言えるショットと編集のつなぎで、軽快かつ効率的に提示していく手腕はとても3作目とは思えない鮮やかさ。何よりも映像の力がすごい。ギリシャ悲劇のような静謐さと美しさ、暗闇に浮かぶ人影や火影の神秘的魅力。そして時に凶暴にもなる効果音。

    デジタルリマスターの映像を大画面で堪能してほしい!

    マルコ・ベロッキオ監督「わたしの血に流れる血」

    「ポケットの中の握りこぶし」で衝撃的なデビューを飾ったベロッキオ監督も、既に80代半ば。同世代のヌーベル・ヴァーグ世代の大半は既に亡くなり、もはや円熟の巨匠となっているけれど、その自由な精神はいまだ健在である。

    2000年代に入り、「夜よこんにちは」「愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」「夜の外側」でムッソリーニのファシズム期や赤い旅団のテロを通じてイタリア史の汚点に切り込み、「エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命」でカトリック教会の暗部を暴き、さらに「シチリアーノ 裏切りの美学」でイタリア社会に深く浸透したマフィアの世界を描くなど、メッセージ性の強い作品を発表してきたベロッキオ監督。

    今回、公開された「わたしの血に流れる血」は、2015年の作品だけど、ひと味違う不思議な魅力を湛えた作品に仕上がっている。

    映画の舞台は、イタリア北部の閉ざされた町ポッピオ。映画は、17世紀の魔女裁判と、現代の町の奇妙な秘密結社の活動を交互に描いていく。二つの世界をつなぐのは、魔女裁判の舞台であり、現在は朽ち果てた修道院に隠れ住む老吸血鬼パスタ伯爵。。。。

    映画は、過去と現代を自由に往還し、時に過酷な魔女への拷問と、時にはユーモラスにも見える現代の老吸血鬼と彼が組織した秘密結社を巡る騒動を追っていく。謎めいたオブジェ、パスタ伯爵は本当に吸血鬼なのか、魔女はもしかしたら聖女なのではないか、秘密結社の本当の目的は・・・。謎は謎を呼び、容易に解消されない。その中で、パスタ伯爵は、死を予感しながら夜の町を彷徨い、そして在りし日の魔女騒動を回顧する。その記憶は、いつしか現在にも浸透してくるようだ。。。。

    社会的メッセージの強い作品では圧倒的な物語の強度と緊迫感を映像化したベロッキオ監督。しかし、この作品ではより自由に、より軽やかに、2つの時代を往還する物語を楽しんでいるように見える。自身も老境に入った監督の自画像がこっそり忍び込んでいるかのような軽やかさ。それがとても心地よい。

    100歳まで映画を撮り続けたオリヴェイラ監督のように、これからも映画を撮り続けてほしいと思う。

    ミケランジェロ・アントニオーニ・レトロスペクティブ

    世界三大映画祭のすべてで最高賞を受賞し、ゴダールなどの映画人に激賞された巨匠アントニオーニ。今回は、初期作品で日本初公開の「愛と殺意」、「敗北者たち」と、4K修復版の「女ともだち」、「情事」、「赤い砂漠」の5作品が公開される。

    初期作品の二本は、若者の無軌道な生き方をテーマに、その高揚と挫折を冷静に描いていく。二本とも、犯罪に関わった若者たちの内面の葛藤と、心理的に追い詰められている状況を描いているのが興味深い。特に、一攫千金への強烈な野心と、美しい女性を自分のものにしたいという欲望は、アントニオーニならでは。

    そして、アントニオーニの代名詞とも言える「情事」。「愛の不毛」を描いた傑作であり、モニカ・ヴィッティの虚無的な美しさが圧倒的であり、そして謎めいた失踪事件が解決されないままにいつしかその探索自体が迷路に陥っていくという不条理な作品でもある。

    とは言え、今回の最大の目玉は「赤い砂漠」。

    アントニオーニ初のカラー作品だけあって、その色彩設計は圧倒的な美しさ。青と赤を基調に画面全体が独自の存在感を発揮するのは圧巻である。そして霧。この映画は、冒頭のガス工場の煙から、波止場に立ちこめる霧に至るまで、随所に視界を遮る霧やガスが立ちこめる。これが映画に夢幻のような浮遊感をもたらす。

    その中を呆然とさまようモニカ・ヴィッティ。半ば狂気に陥ったかのような精神低に不安定な彼女の言動に導かれるように、いつしか観客もこの混乱した不安な世界を追体験していくことになる。

    こんな実験的な作品をあの巨匠が撮っていたなんて!これは絶対に映画館で見るべき傑作である。

    クロード・シャブロル傑作選2

    ゴダール、トリュフォー、ロメールたちと並ぶフランス・ヌーベルヴァーグの巨匠でありながら、初期の「いとこ同士」や「美しきセルジュ」を除けばほとんど日本に公開されてこなかったクロード・シャブロル。

    今年から始まったクロード・シャブロル傑作選は、そんな巨匠の魅力を堪能できる画期的な企画である。2月の第1弾ではサイコ・サスペンスとして「女鹿」「不貞の女」「肉屋」の三本が公開されて、その謎めいたサスペンスの世界に圧倒された人も多いと思う。

    今回の第2弾では、さらに傑作と呼ぶに相応しい「ヴィオレット・ノジエール」「ベティ」「沈黙の女」が公開されている。これは映画館に駆けつけるしかない。

    ロメールと共にヒッチコックについての著書もあるシャブロルの作品には、もちろんサスペンスの気配が濃厚に漂っている。さらにそこに加えられるのは、時に娼婦のように振る舞う女たちの闘争と連帯、あるいはブルジョアの生活に対する憧れと反発、そして裏切り。女たちは易々と社会のルールや道徳を無視して欲望のままに行動し、時には世話になった人や両親を裏切り、そして殺人まで犯してしまう。

    これを演ずるのが、若き日のイザベル・ユペール(ヴィオレット・ノジエール)、マリー・トラティニャン(ベティ)、そしてサンドリーヌ・ボネール(沈黙の女)。美しく、奔放で、内面に深い傷を抱えながらも、したたかに、軽やかに、そして挑戦的に社会に立ち向かう姿は、ある種爽快でもある。

    ぜひ映画館に駆けつけよう!

    シャンタル・アケルマン映画祭2026

    主婦の単調な日常の反復の中で徐々に芽生えてく狂気の世界を描いた「ジャンヌ・ディエルマン」が衝撃的だったシャンタル・アケルマンの特集上映会が10月に開催される。

    今回は、これまで公開されてきた「アンナの出会い」「一晩中」「囚われの女」「阿房宮」など、物語性の強い作品だけでなく、深い思索と共に制作されたドキュメンタリー作品も上映されるとのこと。

    映画そのものを過激に解体していくゴダールと比較すると、アケルマンは一見すると静謐で均整の取れたショットをつないで居るように見える。

    しかし、アケルマンは、そこに反復と跳躍、迷宮のような無方向感覚を導入することで、映画の新たな可能性を提示する。そこには深い洞察と共に、ある種の女性的な身体感覚も感じられる。まさに革新的な映像体験がそこにある。

    今回は、ジャンヌ・ディエルマンを巡るドキュメンタリーも特別公開される予定とのこと。

    これは日仏学院に駆けつけるしかない!

    パク・チャヌク「しあわせな選択」

    パク・チャヌクの新作は、いつも公開と同時に映画館に駆けつけるんだけど、「しあわせな選択」の公開の際は忙しくて見過ごしてしまった。気になっていたんだけど、シネマリスが再上映していることを発見して駆けつける。

    温室付の一軒家で休日には庭でバーベキューを楽しむ豊かな一家の物語。ある日、主人公マンスは、米国資本に会社が買収されて解雇される。彼は何とか再就職しようとするが現実は厳しい。家族の幸福を取り戻すために、マンスはライバルの殺害を試みる。。。

    「オールド・ボーイ」、「親切なクムジャさん」」などの復讐三部作を観ている人であれば、わかってもらえると思うけれど、パク・チャヌクの映画は、「痛い」。金槌でなぐりつけたり、自分で舌をかみ切ったり、ととにかくよくこんなことを思いつくなと言う場面が続く。しかも、それをとても過剰に、時にはコミカルに描く。そこに彼の独特の映画文体がある。

    前作の「別れる決心」では、そのパワーが少し落ちて、パク・チャヌクも心理劇に移行するのかなと感じたけど、今回はそれが全面的に復活。

    復讐三部作に戻ったように、登場人物たちは、わめき、叫び、狂乱し、傷つけあう。でもシリアスではなく、芝居がかった演技はユーモラスでさえある。主人公を演じるイ・ビョンホンがいい味を出している。これがパク・チャヌクの醍醐味。

    そしていつものように、映画の最後はほろ苦く、どこか不条理さえ感じさせる「しあわせな選択」が描かれる。思いがけないところから訪れる突然の大団円もいつも通り。

    でもそれ以上に、パク・チャヌクは、ここでもひっそりとこの世ならぬ存在を映画の世界に忍び込ませる。「JSA」の最後で、なぜか主人公があり得ない場所に出現したように。あるいは「渇き」の最後でカトリックの秘蹟を逆説的に提示したように。この映画でも、最後に神秘が出現する。

    思えば、パク・チャヌクは、「アナーキスト」でも登場人物たちを教会に逃げ込ませることで救済の可能性をほのめかしていた。彼の痛く狂騒的な世界の背後には、どこかスピリチャルな感覚がある。それが彼の作品の最大の魅力なのだ。

    再上映を決めてくれたシネマリスに感謝!

    アレクサンドル・ソクーロフ特集

    シネマリスでアレクサンドル・ソクーロフ特集が始まりましたね。既に公開済みの作品が中心ですが、この機会に改めて見直すのも良いかもしれません。

    「エルミタージュ幻想」は、19世紀のフランス外交官がソクーロフ自身のナレーションに導かれてエルミタージュ美術館を巡るという映画。90分間のワンカット映像で話題を呼びました。

    映画は、エルミタージュ美術館を舞台に、現在の美術館とピョートル大帝やエカテリーナ女帝の時代などが交錯して夢とも現実ともつかない時間が流れていきます。圧巻は、最後のダンスパーティ。ゲルギエフの指揮で、2000人のエキストラが豪華絢爛なダンスを披露するのはいつ見ても素晴らしい。これだけで見る価値ありです。

    今回の特集は、権力者をテーマにした作品が中心です。

    「太陽」は、第二次世界大戦の敗戦が迫った日本の昭和天皇を描いた作品。こちらも、現実と幻想が交錯した物語が展開されていきます。イッセー尾形扮する昭和天皇が結構リアルで、「あっ、そう」という独特の言い回しが強烈な印象を残しました。

    一方、「独裁者たちのとき」は、全編、モーフィング技術を駆使して、ヒトラー、スターリン、チャーチル、ムッソリーニなど実在の独裁者たちを会話させた実験的な映画。

    舞台は神の審判を待つ煉獄で、彼らは毎夜、天国の門の前に集って対話を繰り広げるという物語。煉獄がもしあるとしたら、こんな感じだろうという圧倒的な映像も含めて、スピリチャル系の人間には必見の映画でした。

    これ以外にも、タルコフスキーに捧げられた「モスクワ・エレジー」も上映されます。こちらも楽しみですね。

    こうなったら、ヒトラーの最後を描いた「モレク神」や「牡牛座 レーニンの肖像」、あるいはルーブル美術館の内部を経巡る「フランコフォニア ルーヴルの記憶」、そしてチェチェン紛争地帯に老女が旅する「チェチェンへ アレクサンドラの旅」、そして権力者4部作の最終作であり再び現実と冥界の境を描いた「ファウスト」などもぜひ上映してほしい!

    魔法少女まどか☆マギカ ワルプギレスの昇天

    1作目で、従来の魔法少女の世界を根底から覆し、その特異なアート世界で衝撃を与えた魔法少女まどか☆マギカシリーズ。

    シリーズ3作目は、ミケランジェロの「天地創造」を明らかに意識したイメージ画像が示唆するように、善と悪、あるいは神と人間を巡って展開される。そこでは、天使と悪魔が世界のあり方を巡って戦い、さらに神による絶対的な調和世界に対して徹底的に抗おうとする悪魔と人間が描かれるだろう。

    同時に、タイトルの「ワルプルギスの廻天」が示すように、1作目で中心的な主題でありながらその全貌が明らかにされなかった「ワルプルギスの魔女」の物語も明らかになる。

    こんな壮大な世界が、魔法少女の世界の中で繰り広げられてしまう(しかも、アニプレックスという大資本の制作によって!)というのが今の日本のアニメ界の実力。この作品が興行的に成功するかどうかはこれから明らかになると思うけれど、カルト・アニメの1つとしてアニメ史に残ることだけは確実だと思う。

    (おまけです。テレビ・アニメについて書いた文章も掲載します。)

    二十世紀電気目録 ユーレカ・エヴリカ

    今週、第一期のテレビ放映が終了しましたね。

    京都アニメーションは、涼宮はるひシリーズしか見たことがなかったのですが、今回の放映は驚きました。

    あふれ出る光、闇に浮かぶ影、あるいは薄くたなびく霞と霧。登場人物の顔がアップされる度に、その大きな瞳に繊細な光が宿る。。。テレビアニメでは考えられない質の高さでした。

    そして、CGを最大限に活用した幻想的な場面!

    主人公の喜八が幻視する20世紀の電気の時代のイメージは、無数の機械人形たちのモブが奇妙な動きをしながら画面を覆い尽くし、圧倒的な印象を与えます。これ、映画館の大スクリーンで観たら衝撃的でしょうね。

    そして、時に挿入されるヘタウマ風に描いた図柄や、昭和熱血スポ根風アニメのパロディ。さらには、宮崎アニメを彷彿とさせる躍動的な追跡場面や飛翔場面。遊び心と実験精神がすべての場面に感じられます。

    これがNetflixで世界配信されるアニメのクオリティなんですね。いやはや。物語はともかく、毎回繰り出される数々のアニメ技術にただただ見とれてしまいました。

    二期以降が楽しみです。ついでにぜひ映画館でも上映してほしい!

    TVアニメ版攻殻機動隊

    TVアニメ版「攻殻機動隊」の放送が、今週最終回を迎えますね。士郎正宗原作の漫画ですが、むしろ押井守の映画と、その世界観を引き継いだテレビシリーズで知られていますが、今回は、士郎正宗の原作に忠実なシリーズとなりました。

    シリーズ構成・脚本は、SF界の奇才、円城塔。これまでも、AIや平行宇宙の世界を描いてきた円城塔ですが、今回は手堅く原作の世界をほぼ忠実に再現しました。さて、最終回は、原作の第一巻の結末をどのように料理するのか、楽しみです。

    原作漫画の第1巻が1991年、完結編の第2巻が2001年刊行なので、もう四半世紀前の物語なんですが、監視カメラ網が隅々まで普及し、生体認証がスタンダードになり、生成AIが日常化してAIエージェントが幅広く使われるようになった今の時代でも、まったく違和感なく通用する世界観が、この作品の魅力です。

    いや、むしろシンギュラリティの脅威が真剣に語られ始めている現在だからこそ、この物語がリアリティを持って受けとめられるような気がします。その意味では、円城塔を起用して原作に忠実なアニメ化を今のタイミングで行ったことは意味があると思います。

    ご承知の通り、原作漫画の第1巻は、主人公の草場素子が、人形遣いと呼ばれるインターネット空間上に発生した高度の知性体と融合することで完結します。たぶん、テレビアニメもこれを踏襲するでしょう(もしかしたら、円城塔はそこにひっそりと独自のメッセージを忍ばせるかもしれませんが。。。)。

    この人形遣いいう存在、これこそ今、生成AI、フィジカルAIから、自律型AIを経た次のステップを予感させるものです。これが人間と融合するとき、何が起きるのか。それは原作の第2巻が取り上げている主題であり、その結論は東洋的な道教や仏教の世界観へと広がっていくのですが、ぜひテレビアニメ化を期待したいところです。

    とりあえずは、今回のテレビアニメ最終回を見て盛り上がりましょう!

    天幕のジャードゥーガル

    アニメの話題をもう一つ。今期アニメで一押しの一つだった「天幕のジャードゥーガル」も今週で終了ですね。

    物語は、チンギス・カーン率いるモンゴル帝国がペルシャに侵入し、ある高名な学者の家で奴隷として働いていた女の子が連れ去られるところから始まります。彼女は、その後、モンゴル帝国の政治に巻き込まれていきます。ほのぼのとした絵柄からは想像できないハードな物語は衝撃でした。

    そこに描かれるのは、当時の遊牧民の生活、帝国内の政治的対立と陰謀から、当時の奴隷制の実態、ユークリッド幾何学や錬金術に代表されるイスラム学問の高度な発展、さらには中国の胎教や道術など、しっかりと歴史的考証を踏まえたもので、とても刺激的でした。

    さらに、スピリチャル系の私としては、森の民のシャーマンの脱魂儀礼や、モンゴル遊牧民が駆使する降雨祈願など、当時のスピリチャルな世界を映像化したところも魅力でした。

    この手の作品は、キャラクターグッズとか関連商品化も難しいから、なかなか制作は難しいでしょうが、ぜひ続編を期待します。

  • 2つの攻殻機動隊ー原作漫画からテレビ版アニメへー

    「攻殻機動隊」アニメ版の最終回が放映されましたね。円城塔の脚本は、ほぼ原作に忠実でした。あの膨大な台詞と傍注を簡潔にまとめた手際は鮮やか。良い幕切れでした。

    とは言え、原作漫画が完結してから30数年後のアニメ化。変わらないものもあれば、変わったものもあるはず。それを少しだけ深読みして読み解いてみます。(放映が終了しているのでネタバレありです。未見の方は、観てからお読みください。)

    テレビアニメ版に登場した「自然の風景」

    今回のアニメ版最終回で目についたのは、原作漫画には出てこない「自然の風景」。

    そもそも草薙素子が狙撃される場面から、一斉に周りの水鳥が飛び立つ様子が挿入されます。それは、もちろん部下を無駄死にさせてしまった荒巻部長の内心を映像的に表すためのアニメ技法かもしれませんが、そうであれば彼の顔をアップで撮るとか、そこに少し回想シーンを挿入する方が効果的でしょう。なぜ、あの場面で水鳥が一斉に飛び立つ場面が入ったのか、さらにそれを予感させるような林の中を吹き渡る風が描かれたのか。

    次いで、場面が変わり、ネット空間に誕生した人工知性体「人形遣い」と草薙素子の対話が始まります。

    宇宙の成り立ちや生物の進化を、量子的な揺らぎからマクロレベルでの決定論まで一望し、さらに自己複製化や自己分裂による平行宇宙論へと展開し、最終的に神話上の世界樹やカバラーのセフィロト、そして神道の天御柱のイメージを召喚する内容は、やはりスリリング。最終的に、草薙素子は、人形遣いの提案を受け入れて、人工知性体と合体=結婚し、新たな生命体に生まれ変わります。

    この場面で、テレビアニメ版が原作漫画版と異なるのは、いくつか自然の風景が挿入されていること。風がそよぐ草原やそこに放置された戦車の残骸が描かれ、さらに環境破壊で汚染されたかに見えるフラミンゴの群れなども挿入されます。

    原作漫画が、人形遣いと草薙素子の対話を広大な電脳空間の中で描いたのに対し、テレビアニメ版では、電脳空間とは異なる現実の自然風景の場面が意識的に挿入されています。

    さらなる相違

    「人形遣い」の姿も、原作漫画では無数の回線につながれた形で提示されますが、テレビアニメ版では回線が省略され、現実空間でも電脳空間でも回線のない単体として提示されます。

    そして最後、人形遣いとの融合を終え、相棒バトーの活躍で新たな擬体に入って生まれ変わった草薙素子が、バトーとの再会を約束して外の世界に出て行く場面。

    台詞は原作通り、「さあてどこへ行こうかしらね。ネットは広大だわ」のままなのですが、彼女の前に広がる風景がテレビアニメ版では原作と微妙に異なります。一見すると、ほぼ同じに見えますが、テレビアニメ版では、高層ビル群の夜景の向こうに広がる海が描き加えられています。これにより、草薙素子がネット空間ではなく、現実の世界にいることがより強調されます。

    原作漫画の時代背景

    こうした違いが意味するのは何でしょうか。

    原作が発表された1990年前後は、ウィリアム・ギブスンのサイバーパンクSFが一世を風靡した時代でした。また、1991年には、ティム・バーナーズ=リーがWWWを提唱し、まさにインターネットの黎明期でもありました。人工知能についても、日本では、第5世代コンピューター計画として並列推論型コンピューターの開発が進められ、超並列コンピューターの開発や論理プログラミングの設計、自然言語処理や音声・画像処理のプロトタイプが試みられていました。

    いわば、この時代は、電脳空間や人工知能が「来るべき未来」として夢見られていた時代だったわけです。

    その時代に発表された原作漫画の重点は、全身サイボーグでありながらもゴーストを持った人間であり続ける草薙素子の「進化の物語」でした。人間が、人工知性体と融合して飛躍的にその認識能力を拡大させ、電脳空間内を自由に動き回れるようになった時に何が起きるのか。こうした期待を残しながら幕を閉じたのが原作漫画です。

    だからこそ最後の場面で草薙素子の前に広がるのは、抽象的なネット空間をも象徴する高層ビル群の必要がありました。そして、この高層ビル群に象徴されるネット空間での草薙素子の活躍を描いたのが、押井守による「攻殻機動隊 Ghost in the Shell」とイノセンス、さらにこれに続くアニメシリーズでした。

    時代背景の相違点

    これに対し、30数年後のテレビアニメ版を取り巻く環境は大きく変わりました。

    いまやインターネットを基盤とするバーチャル世界は日常世界と変わらないほどのリアリティを持ち、生成AIの登場とロボット型AIや自律型AIの開発によって、人間とAIの境目が曖昧になり始めています。AIがさらに進化して、人間を凌駕するシンギュラリティの到来も真剣に議論されるようになりました。

    そんな今日の世界において、原作が描く人間と人工知性体との融合を通じた進化の物語を素直に受けとめることはできません。むしろ、そもそも人間とは何なのか、AIに代表される人工知性とどこが違うのかが真剣に問われなければなりません。

    このような原作漫画とテレビアニメ版を取り巻く時代環境の違いが反映されているのが、おそらくテレビアニメ版における「自然風景=リアルな現実」の挿入です。その背景にはこの物語の重心が草薙素子から人工知性体である「人形遣い」にひそかに移っているという事情があります。

    人形遣いの夢

    印象的な台詞があります。原作と変わらないのですが、人形遣いが草薙素子と融合する時に最後にもらす言葉です。

    これで私は真の生命体となる・・・
    流れる雲のようにうつろう・・・
    不確実で多様な宇宙の一部に・・・・・・・・・

    そもそも、人形遣いが草薙素子との融合を望んだのは、「多様性やゆらぎを持つため」でした。原作では、それは人形遣いという人工知性体のシステムの安定性確保や脆弱性の減少などいろいろと合理的な理由付けがなされています。

    しかし、草薙素子との融合によって死のリスクさえ生じるにもかかわらず、人形遣いがそれを望んだのは、こうした合理的理由ではなく、純粋に多様性やゆらぎを取り込むため、それによって不確実で多様な宇宙の一部に降り立つためだったと考えられないでしょうか。

    この人形遣いの台詞を説得力のあるものにするための仕掛けが、原作にはない形で挿入された自然の風景であり、水鳥の飛翔であり、さらには林の中を吹き抜ける風だったと考えると、テレビ版の物語は新たな相貌を見せてくれます。

    人工知性体にとっての「生」

    AIの最大の限界は、現実世界の中に存在しないということです。擬体を使って現実世界に降り立ち、精巧なセンサーを使って人間の五感が感じ取れる以上の感覚情報を収集できたとしても、それは所詮電子化されたデジタル情報でしかありません。その意味で、人工知能は世界から切り離され、閉じられた知性体です。

    これに対し、人間を含めた生物はこの世界に確実に存在し、刻一刻と変化していく環境を体感し、内と外を相互に浸透させ、さらにインタラクティブに対応することができます。この世界の中に開かれてあること、それが「生きる」ということです。

    これまでみてきたように、テレビアニメ版は、最後に主人公を草薙素子から人形遣いに変えました。そして、原作の「人間の電脳空間への進化」の物語を、人工知性体が多様性やゆらぎを持った生物にあこがれて、不確実な多様な宇宙の一部へと降り立つ物語に転換したのです。わかりやすく言い換えれば、ネット空間の中で神のような存在と化した人工知性体が、死のリスクを受け入れてまでも「この世界で生きることを選択した物語」への転換です。

    だからこそ、最後の場面では、無機的な都市空間の向こうに海が挿入されなければなりませんでした。ネット空間での高度の知性体を手にした草薙素子に見えるのが、広大なネット空間を象徴する高層都市群であったとすれば、「生命」を手に入れてこの世界に降り立った人形遣いにとって重要なのは、むしろ住み慣れた電脳空間の向こうに広がる夜の海のはずだからです。

    生成AI時代における「生」の意味

    こうしてみてくると、攻殻機動隊という物語はテレビアニメとして甦ることで新たな可能性を手に入れたようです。

    これからも、この物語は現代の最も先鋭的な課題である人工知能と人間の共生は可能かなど、様々な問題に示唆を与えてくれるでしょう。さらに、生成AIの時代に人間であることの意味や、生のあり方にも大切な導きを与えてくれると思われます。

    いくら生成AIが最適解を提供し、量子コンピューターが膨大な情報を一瞬に処理しても、人間を含めた生物がこの世界の中にあることの意味は変わりません。むしろこれを積極的に引き受け、五感と関係性をフルに活用する新しい生き方を切り拓いてくれるような気がします。これがテレビアニメ版のメッセージなのでしょう。

    ということで、第2巻のアニメ化も期待しています。

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  • 攻殻機動隊が描く意識と知性の未来

    TVアニメ版「攻殻機動隊」の放送が、今週最終回を迎えますね。士郎正宗原作の漫画ですが、むしろ押井守の映画と、その世界観を引き継いだテレビシリーズで知られています。今回は、士郎正宗の原作に忠実なシリーズとなりました。

    シリーズ構成・脚本は、SF界の奇才、円城塔。これまでも、AIや平行宇宙の世界を描いてきた円城塔ですが、今回は手堅く原作の世界をほぼ忠実に再現しました。さて、最終回は、原作の第一巻の結末をどのように料理するのか、楽しみです。

    なぜ今なのか?

    原作漫画の第1巻が1991年、完結編の第2巻が2001年刊行なので、もう四半世紀前の物語なんですが、監視カメラ網が隅々まで普及し、生体認証がスタンダードになり、生成AIが日常化してAIエージェントが幅広く使われるようになった今の時代でも、まったく違和感なく通用する世界観が、この作品の魅力です。

    いや、むしろシンギュラリティの脅威が真剣に語られ始めている現在だからこそ、この物語がリアリティを持って受けとめられるような気がします。その意味では、円城塔を起用して原作に忠実なアニメ化を今のタイミングで行ったことは意味があると思います。

    「人形遣い」というコンセプトの魅力

    ご承知の通り、原作漫画の第1巻は、主人公の草場素子が、人形遣いと呼ばれるインターネット空間上に発生した高度の知性体と融合することで完結します。たぶん、テレビアニメもこれを踏襲するでしょう(もしかしたら、円城塔はそこにひっそりと独自のメッセージを忍ばせるかもしれませんが。。。)。

    この人形遣いという存在、これこそ今、生成AI、フィジカルAIから、自律型AIを経た次のステップを予感させるものです。これが人間と融合するとき、何が起きるのか。それは原作の第2巻が取り上げている主題であり、その結論は東洋的な道教や仏教の世界観へと広がっていくのですが、ぜひテレビアニメ化を期待したいところです。

    別冊日経サイエンス「SFを科学する」が面白い

    ところで、今回の攻殻機動隊のテレビアニメ放映にあわせて色々なイベントが企画されました。

    東京で開催され、その後、関西にも巡回した「攻殻機動隊展 Ghost and the Shell」展は大盛況でした。攻殻機動隊のグローバルサイトでも、関連グッズが次々と販売されています。

    でも、個人的には、別冊日経サイエンス「SFを科学する 士郎正宗をつくるには」が興味深かったです。これは、日経サイエンスのバックナンバーから、士郎正宗が気になった記事を選び、士郎正宗編集として一冊にまとめたもの。

    生物、脳の進化から、生成AI技術、意識、そして暗黒物質まで、士郎正宗が作り上げた攻殻機動隊の世界観の背景にある科学的知見を垣間見ることができる好企画でした。攻殻機動隊の世界に説得力があり、今でも古さを感じさせないのは、こういうリサーチが背景にあったからなんですね。

    意識とは何か

    特に興味深かったのは、「AIで迫る『意識とは何か』」という記事。現在の生成AIが自律型へと移行し、さらに自分で判断して対人サービスなどを行うようになるためには、「意識」を持つことが不可欠です。そして、この「意識」の問題が、攻殻機動隊における「人形遣い」とは何かという問題に深く関わってきます。

    攻殻機動隊では「人形遣い」がネット空間の中で自然発生した意識を持つ高度知性体だと説明されます。人形遣いが、単なる機械知性や人工知能と異なるのは、それが「ゴースト」を持っている点。ゴーストとは、魂とも言い換えられるもので、生命体であればどのような単純な形態でもゴーストを持つとされます。言い換えれば、どんなに高度な知性体であっても、マシンである限りゴーストはありません。

    なぜ「人形遣い」に「ゴースト=魂」が発生したのか

    では、本来、ネット空間の知性体に過ぎない「人形遣い」が、なぜ「ゴースト=魂」を獲得することができたのか。さらになぜ人形遣いは、生命体となるために草薙素子との融合を求めたのか。

    議論の出発点として、あらゆる生命体には知性があることを確認した方が良いでしょう。プラナリアのような単純な生物でも脳があります。知性は、外部の刺激情報を処理し、これに適切に反応して捕食、逃走、退避、攻撃、生殖などを行って種を保存するために不可欠な機能です。

    では、そこになぜ意識が生まれるのか。一つのカギは「グローバル・ワークスペース」という概念です。これは脳内に実在する可能性が検証されつつあり、そこが意識の場ではないかというのが上記の記事の内容です。グローバル・ワークスペースは、視覚、聴覚、嗅覚、味覚などから得られる情報を共有し、これを整理して判断・行動していくスペースで、前頭葉にあるのではないかと考えられています。こうした情報処理の機能の必要性から意識が生まれたというのが「グローバル・ワークスペース」仮説です。

    攻殻機動隊の「人形遣い」に引きつけて言えば、無数のネット空間を自由に出入りして情報収集やハッキングを行ってきた機械知性体が、その膨大な情報処理を効率的に行うために「グローバル・ワークスペース」を生み出し、それが意識の発生につながった、ということでしょうか。21世紀の脳科学の発展や生成AIを通じた知能研究が発展するはるか前に、人形遣いのような概念を生み出した士郎正宗の先駆性はやはりすごいですね。

    さらに生命と神の問題へ。。。

    今回の日経サイエンス特別編では、攻殻機動隊で取り上げられている生命の問題や、宗教の問題も取り上げられています。

    人形遣いが草薙素子との融合を求めたのは、生命における情報の伝達と多様性・ゆらぎの問題が関わっており、また人形遣いが草薙素子に提示した生命の根源に至る「天御柱」という概念は、量子的な宇宙の上位階層が関わっています。それぞれ、現代の科学がどこまでこの問題を取り扱ってきたのかを概観できる点でも興味深い特集でした。

    さて、また攻殻機動隊を読み直してみようかな。

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