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  • 「ライトスタッフ」:宇宙の神秘に触れる

    宇宙開発ではなく、人間の神秘についての映画

    BSプレミアムで録画したままになっていた映画『ライトスタッフ』(1983年)を観る。上映時間は193分だ。現代の感覚ではかなり長い部類に入る。でも、観終わったあとには、長さより豊かな時間を過ごした感覚が残った。

    本作は、トム・ウルフの同名ノンフィクションを原作に、NASAのマーキュリー計画とその時代を生きたパイロットたちを描いた映画である。だが、この映画を単なる宇宙開発史や英雄譚として理解すると、その本質を見落としてしまうかもしれない。『ライトスタッフ』が描いているのは、人類初の宇宙飛行そのものではなく、「限界の向こう側を見ようとした人間たち」である。


    現代映画が失った「豊かな時間」

    現在のハリウッド映画は驚くほど効率的だ。不要な場面は削られ、物語はテンポよく進み、観客の感情は計算されたように導かれる。映画産業としては当然の進化だろう。限られた時間のなかで観客を満足させる必要があるからだ。

    しかし『ライトスタッフ』には、そのような効率性とは異なる時間が流れている。この映画には、一見すると筋書きに直接関係しない場面が数多く存在する。テストパイロットたちが集まる酒場。砂漠を渡る風。馬に乗るチャック・イェーガー。宇宙飛行士の家族たちの日常。

    それらは物語を前進させるための装置ではない。むしろ映画は、それらを積み重ねることで、一つの世界そのものを観客の前に立ち上げていく。『ライトスタッフ』はストーリーを消費する映画ではない。世界を体験する映画なのである。


    「ライトスタッフ」を持つ者たち

    タイトルにもなっている「ライトスタッフ(The Right Stuff)」とは何だろうか。それは単純な才能や能力ではない。死と隣り合わせでありながら、それでも挑戦を続けようとする人間だけが持つ、ある特別な資質である。

    そのことは映画の冒頭から示される。

    本作はマーキュリー計画ではなく、テストパイロットの墜落事故から始まる。宇宙開発映画の導入としては意外だ。しかしその選択によって監督フィリップ・カウフマンは、この映画の主題が宇宙開発そのものではないことを明確にしている。

    限界への挑戦には常に死が付きまとう。そしてライトスタッフとは、その死の可能性を理解しながらも飛び続ける者たちに備わった資質なのである。


    死とともに生きる家族たち

    映画は挑戦者本人だけでなく、その家族たちにも視線を向ける。テストパイロットの妻たちは、夫が帰還する保証のない日々を生きている。

    そもそも、この映画には死の気配が濃厚に立ちこめている。なんと言っても映画の冒頭は、マッハに挑んだテスト・パイロットの死から始まるのだ。その後、亡くなったものの葬儀が行われ、その上を飛行機が追悼するように飛び去っていく。この場面は、映画で何度も繰り返されるだろう。

    そして、事故で亡くなったパイロットの家族を訪ねる黒服の男が何度も登場する。彼が何者なのか、映画では最後まで明確に語られない。しかし、彼は、映画の登場人物を追うように、エドワード空軍基地からマーキュリー計画の基地へと登場し続け、葬儀にも出席する。その存在感はまるで死神のようだ。

    ある妻は言う。「夫が死んでも二か月分の手当が出て終わり」。あまりにも過酷な言葉である。それでも彼女たちは、その人生を受け入れている。この映画は、挑戦する男たちだけではなく、彼らを送り出し続ける家族たちの強さにもまた、一つのライトスタッフを見出している。


    もう一人の主人公、チャック・イェーガー

    本作の最大の特徴は、マーキュリー計画とは別に、チャック・イェーガーの物語が並行して描かれることだろう。

    イェーガーは人類で初めて音速の壁を突破した伝説的テストパイロットである。しかし彼は宇宙飛行士に選ばれなかった。普通の映画なら、ここで彼は脇役になる。だが『ライトスタッフ』は最後まで彼を追い続ける。彼は国家的英雄としてではなく、飛ぶことをやめられない人間として描かれる。

    彼は飛行前に必ず、「ガムを一枚くれないか。後で返すから」と言う。それは、彼なりの生き残るためのジンクスなのだろう。なぜなら、その言葉は、初めて彼が音速を突破した後にきりもみ状態になりながらも何とか機体を戻すことができたときに偶然使った言葉だからである。

    国家プロジェクトの中心から外れながらも、自らの限界へ挑み続ける。その姿は、マーキュリー・セブンとは異なるもう一つのライトスタッフのあり方そのものだ。


    光の映画

    この作品で最も印象的だったのは、「光」のモチーフである。

    イェーガーが音速を突破したときに見た光。宇宙飛行士が宇宙から目撃する朝焼け。オーストラリア上空で確認された地上の光。さらに高度四万メートルでイェーガーが遭遇する神秘的な光。

    映画はそれらを説明しない。科学的な説明もなければ、意味を言葉で整理することもない。ただ観客に見せるだけである。

    特に印象深いのは、オーストラリアのアボリジニーが登場する場面だ。地上ではアボリジニーが焚火を熾し、自分たちの上空を通過する宇宙船と、彼らなりの方法で交信しようと試みる。宇宙飛行士は軌道上からこの焚き火の光を確認し、それがアボリジニーたちによる儀式だと知らされる。その時、彼は地球の周回軌道にもかかわらず、まるで火の粉に包まれたような発光現象を目撃する。その現象が何だったのかも最後まで説明されない。

    だが映画は、宇宙と大地、人間と自然がどこかで響き合っているかのような感覚を残していく。それは宇宙開発映画でありながら、どこか宗教的な神秘に満ちた瞬間である。


    成功よりも大切なもの

    『ライトスタッフ』は成功の物語ではない。

    もちろんマーキュリー計画は成功する。宇宙飛行士たちは称賛され、アメリカは月を目指す新たな時代へと進んでいく。しかし映画が本当に描いているのは、その成功に至るまでの人間たちの時間である。

    失敗。恐怖。嫉妬。誇り。友情。そして、自分の人生を懸けてでも挑戦したいという衝動。映画は偉業そのものよりも、その偉業へ向かう人間の内面に強い関心を向けている。


    世界への畏敬

    現代の視点で観ると、『ライトスタッフ』には無駄が多い。だが、その無駄こそが作品を豊かにしている。効率や合理性では測れない時間。説明されない神秘。意味のないように見える寄り道。それらが積み重なることで、この映画は宇宙開発の歴史映画を超えたものになっている。

    『ライトスタッフ』が描いているのは宇宙そのものではない。人間が限界の向こうへ手を伸ばそうとするときに見える景色である。そして、その景色の先には、科学や国家プロジェクトだけでは説明できない世界の豊かさと神秘が広がっている。

    193分という長い時間の果てに残るのは興奮ではない。世界への畏敬である。その感覚は、上映が終わった後も頭の中に静かに留まる。

    それこそが、この映画が四十年以上を経た今でも色褪せない理由なのだと思う。

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  • 草間彌生の自伝「無限の網」は生きる力を与えてくれる

    草間彌生さんが亡くなったお陰で、新潮文庫の彼女の自伝「無限の網」が書店に平積みされるようになりましたね。最近、なかなか手に入りづらかったので、早速購入しました。今更ですが、これは面白い!

    草間さんは松本の旧家で生まれ育ちました。封建的で抑圧的な家庭の中、精神を病んで幻覚・幻聴に悩まされ、さらに離人症を発症します。草間さんはこのような精神的問題を解消するために、絵画制作に没頭し、まだ海外渡航が一般的ではなかった時代にNYに脱出します。そして「ハプニング芸術家」として大成功し、「世界のクサマ」になるわけですが、この波瀾万丈の生涯が、ご本人の過激な語り口で綴られるこの自伝、本当に読み応えがあります。

    この魅力を伝えるには、ご本人の言葉で語ってもらうのが一番です。印象的な言葉を引用しておきます。

    創作の原点

    草間さんの創作の原点は、子ども時代に草間さんを悩ませた幻聴や幻覚、あるいは離人症的な体験でした。彼女は、ここから逃れるために創作をはじめ、そのままアートにのめり込んでいきます。

    物心つく頃から私の視覚や聴覚や心の襞には、自然界や宇宙、人間や血や花やその他様々なことが、不思議や怖れや神秘的な出来事として強烈に焼き付いて、私の生命のすべてを虜にして離さなかった。(中略)
     これから逃れ得る唯一の方法は、その「モヤモヤ」、輝いたり、暗く深海に沈んでしまったり、私の血を騒がせたり、怒りの破壊へとけしかけるモモンガア、それらは一体何だろうかと、紙の上に鉛筆や絵の具で視覚的に再現したり、思い出しては描き止め、コントロールすることであった。

    こうした未知の世界と現世の間を去来する時に、いつも私は病気になり、創作の囚人となる。紙やカンヴァスに絵を描いたり、得体の知れないオブジェを作ったりして、徐々に自分の心の場所を呼び起こし、引き戻していく作業を繰り返すことになった。このような経験の数々は、その場限りの芸術家稼業や、カメレオンのように時代の流行を追いかける付け焼き刃的芸術ではなく、私自身の内から溢れ出る必然性を土台にした創造への企てであり、営為であった。

    草間彌生(1975)「夜の眼」。何かに見つめられている恐怖感が感じられる独特の作品。
    草間彌生(1953)「自画像」。草間彌生の松本時代の作品。不安定な精神を感じさせる。

    「無限の網」の発表によるNYでのブレイク

    このような創作の後に、草間はNYに渡り、貧乏のどん底の中で黙々と創作を続け、「無限の網」という作品を発表します。これが、NYの批評家の目にとまり、草間さんは大ブレイクを果たします。

    絵の構成を無視し、中心がなく、常動作用からくる反復のもたらす単調さは、観る人を当惑させ、暗示と静謐は精神を「無」の眩暈の中に誘い込ませる。(中略)

    私には、一つ一つの水玉をネガティブにした網の目の一量子の集積を持って、果てしない宇宙への無限を自分の位置から予言し、量りたい願望があった。どのくらいの神秘の深さをこめて、無限は宇宙の彼方に無限であるか。それを感知することによって、一個の水玉である自分の生命を見たい。水玉、すなわちミリオンの粒子の一点である私の命。水玉の天文学的な集積が繋ぐ白い虚無の網によって、自らも他者も、宇宙のすべてをオブリタレイト(消滅)するというマニフェストを、この時、私はしたのである。

    その後の草間の基本モチーフとなる水玉。そこには、こんな深い精神と宇宙に関わる思索が秘められていました。

    草間彌生(1959)「No.B White」。無限の網目シリーズの代表作の一つ。
    上記作品の拡大写真。どこまでも水玉が続いていく無窮の世界。

    世界のクサマへ

    その後の草間の活躍は皆さんご承知の通りです。NYのハプニングは、マスコミの報道を通じて世界中に伝わり、草間さんは一躍時代の寵児となります。

    「無限の網」には、この頃の様々な事件が語られていて、ただただ面白いです。何しろ、あのアンディ・ウォーホールと張り合ってゲイのきれいな男の子のモデルを取り合ったというのですから。。。

    さらに、「無限の網」では、お世話になったオキーフとの思い出や、熱烈だけどとても奇妙なジョゼフ・コーネルとの恋愛経験なども語られていて飽きさせません。日本の枠を越えて世界のアート界の一員となった草間さんの過激な人生を満喫できます。

    日本社会への怒り

    そして、封建的で、閉鎖的で、陰湿で、男がいばる日本社会の現実。草間さんは1970年代に日本に帰国し、精神病院に入ってそこで創作活動を再開するのですが、その頃の日本社会に対する怒りの文章は、いまだに有効性をもっているようにも感じられます。

    特に、若い才能や女性を押しつぶそうとする同調圧力や芸術への理解のなさ、マスコミの偏見などは、この本が書かれてから既に10数年が経っていますが、まだ変わっていない気がします。いや、むしろ効率性、経済優先、右傾化の中で、ひどくなっているのかもしれません。草間さんの作品には、「国旗損壊罪」に当たる作品もあるのですが、彼女がもしも生きていたら、同様の作品を発表したかもしれません。

    生きることとしての創作行為

    草間さんにとって創作行為とは生きることに等しいものでした。あの無尽蔵とも言える爆発的創作は、まさに彼女の持つエネルギーの賜であり、そこには強烈な無私の精神がありました。

    芸術家を志している私は、理不尽な環境に打ち勝つと言うことは、追い詰められた立場に置かれた己の苦しい状況に打ち勝つと言うことであり、人間として生まれてきた故の試練であると思っている。だから、私の全人格をもってそれに立ち向かいたい。こういうことに巡り合ったことも、一つの世の運命であるから。

    天の啓示によって、私は神に生かされているのである。艱難辛苦、己を玉にする毎日である。そして、歳月と共に、死を意識すること、日一日である。

    死と言うテーマ

    そして、草間さんは、近づいてくる死について想いを馳せます。しかし、もちろんそれは恐怖でもなければ絶望でもなく、あくまでも積極的なものとして捉えられます。

    芸術の創造的思念は、最終的には孤独の沈思の中から生まれ、鎮魂のしじまの中から五色の採光にきらめきはばたくものである、と私は信じている。そして今、私の制作のイメージは「死」が主なるテーマである。(中略)

    これまでの、私の生きていくための自己革命は、すなわち、死を見いだすためであった。死の意味するもの、その色彩や空間の美、その死の足跡の静かさ、死の後の「無」、それらを含めた我が鎮魂のための芸術を作ることが、私の使命である。」

    「死」をも積極的に捉えることで輝く「生」。草間さんの作品を前にする度に感じる、何か他の作品とは違う独特のオーラのようなものの背後には、こうした考えがあったのだと思います。

    Fondation Beyeler(2026)草間彌生展のインスタレーション

    草間彌生の生の形

    「無限の網」の最後は、次のような印象的な言葉で締めくくられます。凡人にはとても想像がつかない世界ですが、その輝きには何か私たちの生を励ましてくれるものが感じられないでしょうか。

    一日ごとに早くなっていく加速度的な時間の中で、与えられた枠の内側で必死になってみてもたかが知れている、と考えることはおよそ空しく、無意味である。私は、死んであともなお永遠に輝く芸術を望んでやまない。(中略)

    人生は真実素晴らしいとつくづく思い、体が震えるほど、芸術の世界は尽きることなく興味があり、私にはこの世界しか希望のわく、生きがいのある場所は他にないのだ。そして、そのためには如何なる苦労をしても悔いはない。わたしはそのようにこれまで生きてき、これからもそう生きてゆく。」

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