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  • 草間彌生の自伝「無限の網」は生きる力を与えてくれる

    草間彌生さんが亡くなったお陰で、新潮文庫の彼女の自伝「無限の網」が書店に平積みされるようになりましたね。最近、なかなか手に入りづらかったので、早速購入しました。今更ですが、これは面白い!

    草間さんは松本の旧家で生まれ育ちました。封建的で抑圧的な家庭の中、精神を病んで幻覚・幻聴に悩まされ、さらに離人症を発症します。草間さんはこのような精神的問題を解消するために、絵画制作に没頭し、まだ海外渡航が一般的ではなかった時代にNYに脱出します。そして「ハプニング芸術家」として大成功し、「世界のクサマ」になるわけですが、この波瀾万丈の生涯が、ご本人の過激な語り口で綴られるこの自伝、本当に読み応えがあります。

    この魅力を伝えるには、ご本人の言葉で語ってもらうのが一番です。印象的な言葉を引用しておきます。

    創作の原点

    草間さんの創作の原点は、子ども時代に草間さんを悩ませた幻聴や幻覚、あるいは離人症的な体験でした。彼女は、ここから逃れるために創作をはじめ、そのままアートにのめり込んでいきます。

    物心つく頃から私の視覚や聴覚や心の襞には、自然界や宇宙、人間や血や花やその他様々なことが、不思議や怖れや神秘的な出来事として強烈に焼き付いて、私の生命のすべてを虜にして離さなかった。(中略)
     これから逃れ得る唯一の方法は、その「モヤモヤ」、輝いたり、暗く深海に沈んでしまったり、私の血を騒がせたり、怒りの破壊へとけしかけるモモンガア、それらは一体何だろうかと、紙の上に鉛筆や絵の具で視覚的に再現したり、思い出しては描き止め、コントロールすることであった。

    こうした未知の世界と現世の間を去来する時に、いつも私は病気になり、創作の囚人となる。紙やカンヴァスに絵を描いたり、得体の知れないオブジェを作ったりして、徐々に自分の心の場所を呼び起こし、引き戻していく作業を繰り返すことになった。このような経験の数々は、その場限りの芸術家稼業や、カメレオンのように時代の流行を追いかける付け焼き刃的芸術ではなく、私自身の内から溢れ出る必然性を土台にした創造への企てであり、営為であった。

    草間彌生(1975)「夜の眼」。何かに見つめられている恐怖感が感じられる独特の作品。
    草間彌生(1953)「自画像」。草間彌生の松本時代の作品。不安定な精神を感じさせる。

    「無限の網」の発表によるNYでのブレイク

    このような創作の後に、草間はNYに渡り、貧乏のどん底の中で黙々と創作を続け、「無限の網」という作品を発表します。これが、NYの批評家の目にとまり、草間さんは大ブレイクを果たします。

    絵の構成を無視し、中心がなく、常動作用からくる反復のもたらす単調さは、観る人を当惑させ、暗示と静謐は精神を「無」の眩暈の中に誘い込ませる。(中略)

    私には、一つ一つの水玉をネガティブにした網の目の一量子の集積を持って、果てしない宇宙への無限を自分の位置から予言し、量りたい願望があった。どのくらいの神秘の深さをこめて、無限は宇宙の彼方に無限であるか。それを感知することによって、一個の水玉である自分の生命を見たい。水玉、すなわちミリオンの粒子の一点である私の命。水玉の天文学的な集積が繋ぐ白い虚無の網によって、自らも他者も、宇宙のすべてをオブリタレイト(消滅)するというマニフェストを、この時、私はしたのである。

    その後の草間の基本モチーフとなる水玉。そこには、こんな深い精神と宇宙に関わる思索が秘められていました。

    草間彌生(1959)「No.B White」。無限の網目シリーズの代表作の一つ。
    上記作品の拡大写真。どこまでも水玉が続いていく無窮の世界。

    世界のクサマへ

    その後の草間の活躍は皆さんご承知の通りです。NYのハプニングは、マスコミの報道を通じて世界中に伝わり、草間さんは一躍時代の寵児となります。

    「無限の網」には、この頃の様々な事件が語られていて、ただただ面白いです。何しろ、あのアンディ・ウォーホールと張り合ってゲイのきれいな男の子のモデルを取り合ったというのですから。。。

    さらに、「無限の網」では、お世話になったオキーフとの思い出や、熱烈だけどとても奇妙なジョゼフ・コーネルとの恋愛経験なども語られていて飽きさせません。日本の枠を越えて世界のアート界の一員となった草間さんの過激な人生を満喫できます。

    日本社会への怒り

    そして、封建的で、閉鎖的で、陰湿で、男がいばる日本社会の現実。草間さんは1970年代に日本に帰国し、精神病院に入ってそこで創作活動を再開するのですが、その頃の日本社会に対する怒りの文章は、いまだに有効性をもっているようにも感じられます。

    特に、若い才能や女性を押しつぶそうとする同調圧力や芸術への理解のなさ、マスコミの偏見などは、この本が書かれてから既に10数年が経っていますが、まだ変わっていない気がします。いや、むしろ効率性、経済優先、右傾化の中で、ひどくなっているのかもしれません。草間さんの作品には、「国旗損壊罪」に当たる作品もあるのですが、彼女がもしも生きていたら、同様の作品を発表したかもしれません。

    生きることとしての創作行為

    草間さんにとって創作行為とは生きることに等しいものでした。あの無尽蔵とも言える爆発的創作は、まさに彼女の持つエネルギーの賜であり、そこには強烈な無私の精神がありました。

    芸術家を志している私は、理不尽な環境に打ち勝つと言うことは、追い詰められた立場に置かれた己の苦しい状況に打ち勝つと言うことであり、人間として生まれてきた故の試練であると思っている。だから、私の全人格をもってそれに立ち向かいたい。こういうことに巡り合ったことも、一つの世の運命であるから。

    天の啓示によって、私は神に生かされているのである。艱難辛苦、己を玉にする毎日である。そして、歳月と共に、死を意識すること、日一日である。

    死と言うテーマ

    そして、草間さんは、近づいてくる死について想いを馳せます。しかし、もちろんそれは恐怖でもなければ絶望でもなく、あくまでも積極的なものとして捉えられます。

    芸術の創造的思念は、最終的には孤独の沈思の中から生まれ、鎮魂のしじまの中から五色の採光にきらめきはばたくものである、と私は信じている。そして今、私の制作のイメージは「死」が主なるテーマである。(中略)

    これまでの、私の生きていくための自己革命は、すなわち、死を見いだすためであった。死の意味するもの、その色彩や空間の美、その死の足跡の静かさ、死の後の「無」、それらを含めた我が鎮魂のための芸術を作ることが、私の使命である。」

    「死」をも積極的に捉えることで輝く「生」。草間さんの作品を前にする度に感じる、何か他の作品とは違う独特のオーラのようなものの背後には、こうした考えがあったのだと思います。

    Fondation Beyeler(2026)草間彌生展のインスタレーション

    草間彌生の生の形

    「無限の網」の最後は、次のような印象的な言葉で締めくくられます。凡人にはとても想像がつかない世界ですが、その輝きには何か私たちの生を励ましてくれるものが感じられないでしょうか。

    一日ごとに早くなっていく加速度的な時間の中で、与えられた枠の内側で必死になってみてもたかが知れている、と考えることはおよそ空しく、無意味である。私は、死んであともなお永遠に輝く芸術を望んでやまない。(中略)

    人生は真実素晴らしいとつくづく思い、体が震えるほど、芸術の世界は尽きることなく興味があり、私にはこの世界しか希望のわく、生きがいのある場所は他にないのだ。そして、そのためには如何なる苦労をしても悔いはない。わたしはそのようにこれまで生きてき、これからもそう生きてゆく。」

    ===書籍購入===

  • パク・チャヌク監督「しあわせな選択」:騙りの映画作家が描き出す秘蹟

    (以下、ネタバレありです。ご注意を!)

    資本主義批判としての「しあわせな選択」?

    パク・チャヌク監督の新作「しあわせな選択」は、一見すると社会派映画のように見える。

    庭付き一戸建て、温室まであるマイ・ホームで幸せに暮らす会社員マンス。休日には美しい妻と2人の子ども、それに二頭のレトリバーと共に、庭でバーベキューを楽しむ。温室には、様々な盆栽が並べられ、まだ幼い娘はチェロを学び、妻もテニスと社交ダンスに余念がない。絵に描いたようなサクセス・ストーリー。

    しかし、ある日勤めていた製紙会社が米国系資本に買収され、彼は解雇される。製紙業一筋で働いてきた高卒の彼に再就職の可能性はない。通販会社の商品倉庫での低賃金労働。家族も一転して生活が変わり、Netflixは解約、妻の趣味も断念し、犬たちは親の家に引き取られる。

    追い詰められたマンスは、再就職に向けてとんでもないことを思いつく。それは、「ライバルがいなくなれば、仕事は手に入る」というものだった。。。

    これはディストピア映画なのか?

    ここには、韓国社会が抱えるすべての社会問題が詰め込まれているように見える。

    格差と貧困、激烈な競争社会、就職難と過酷な低賃金労働。成功者は優雅な暮らしを謳歌してそれをSNSに掲載し、失業者はほとんど人間として扱われない。マンスがターゲットにする「ライバル」たちも、酒に溺れたり、慣れない仕事に誇りを失ったり。彼らは製紙業一筋に生きてきた真の意味でのプロフェッショナルであり、仕事を心から愛してきた者たちなのに、資本の論理は冷酷に切り捨てる。そして、合理化の果てには、AIを搭載したロボットだけが動き回る無人化された工場。

    資本の論理を極限まで追求した過激な競争社会。

    そこで生き残るためには、マンスのように手段を選ばずライバルを蹴落とすしかない。全世界で大ヒットした「イカゲーム」を思い起こさせるディストピア。

    しかし、パク・チャヌク監督が、そんなシリアスな社会派映画を真面目に撮るはずがない。そもそも、「イカゲーム」を配信したNetflixは米国の大資本ではないか。そんな大資本が描き出す資本主義社会のディストピアなど、所詮はマーケティング戦略の産物でしかない。そんなものにパク・チャヌク監督は加担したりしない。

    「語り=騙り」の映画作家パク・チャヌク

    では、「しあわせな選択」とはどのような物語なのだろう。

    これを考える前に、パク・チャヌク監督が何よりも「語り=騙り」の映画作家だということを確認しておこう。

    例えば、彼の出世作「JSA」を思い出してほしい。一見すると、朝鮮半島の分断と38度線での軍事的対峙の中で、南北兵士の心の交流を描いたかのように見えるこの映画は、実は、38度線の荒野に潜む狐が兵士たちを騙した物語だった。

    そんなはずはないと思う人がいればもう一度この映画を見直してみてほしい。映画の冒頭にはしっかり狐が映し出されている。そして映画の最後には狐に化かされた主人公が、あろうことか板門店の向こう側で行進している姿が映っていたではないか。

    このように、パク・チャヌク監督は、朝鮮半島の分断の物語を見事に「騙り」直す。そもそも映画とは、このようにいかがわしい虚構の世界なのだ。

    復讐三部作の系譜に連なる「痛い」映画

    こうしてみると、「しあわせな選択」に描かれているのは、過激な競争社会の悲劇などでは全くなく、それを口実に繰り広げられる見るからに「痛い」物語なのである。

    その「痛さ」は、言うまでもなく「復讐者に憐れみを」、「オールド・ボーイ」、「親切なクムジャさん」の復讐三部作の系譜を正統に継承したものに他ならない。復讐三部作の一本でも観たことがある人なら、パク・チャヌク監督の映画がいかに「痛い」かを身にしみて分かってもらえるだろう。

    「復讐者に憐れみを」でアキレス腱を切られるソン・ガンホや、頭に袋をかぶせられて電気拷問されるペ・ドゥナ。あるいは「オールド・ボーイ」で金槌を振り回して敵を次々に倒していくチェ・ミンシク。その後、彼は自分で舌をかみ切るという壮絶なことまでやってのける。そして「親切なクムジャさん」の陰惨な子どもたちの処刑ビデオ。さらにそれに続く残された者たちの残忍な復讐。。。

    パク・チャヌク監督の映画には、見るだけで「痛い」場面があふれている。もちろん、「しあわせな選択」も例外ではない。

    「語り=騙り」のツールとしての「痛さ」

    ただし、あわてて付け加えなければならないのは、パク・チャヌク監督の映画が、単にそうした残虐な拷問場面を目的にした映画ではないということである。

    「マーターズ」や「ソウ」、「ホステル」のような最近流行のトーチャー・ポルノと異なり、パク・チャヌク監督は、殺人の場面をユーモアを込めて描く。登場人物たちの大げさで誇張された演技。そもそも殺しの場面自体が破天荒で、登場人物たちは、理性も外聞もかなぐり捨てて大声でわめき散らし、相手を罵り、そしてドタバタ喜劇にも似た乱闘を展開する。

    こうした誇張された演出によって、映画で描かれる「痛み」は喜劇へと転化する。どうやらパク・チャヌク監督は、「どんなに痛い場面でも、しょせんは映画内の虚構でしかない」と告げているようだ。観客は、「痛い」場面に反応し、コミカルなドタバタ劇に笑っているうちに、気づいたらパク・チャヌク監督の「語り=騙り」の魔術にはまってしまう。これがパク・チャヌク監督作品の魅力である。

    生き残るための「騙し合い」

    そして「騙し合い」という主題。

    パク・チャヌク監督もまた「生き抜くための戦い」を主題とする。ただし、その戦いに勝利するのは、武器でも権力への追従でもなく、奸智と連帯を通じてである。

    「お嬢さん」を思い出してほしい。植民地支配下の朝鮮で莫大な財産を手にした男の支配下にあった姪のキム・ミニがいかに策略を駆使してその支配下から逃れたか。そこには、侍女として入り込んだ少女キム・テリとの連帯があった。

    この主題は、ハリウッド進出を果たした「イノセント・ガーデン」でも、カンヌで監督賞を受賞した「別れる決心」でも繰り返される。言うまでもなく、復讐三部作の「親切なクムジャさん」も、愛する人間に裏切られて投獄された女が刑務所を脱出して復讐を果たす物語だった。

    若い頃にヒッチコックに深く傾倒したというパク・チャヌク監督にとって、映画とは誰ひとり信頼できない中で、何とか味方を見つけて生き延びなければならない過酷な世界なのだ。圧倒的な支配の中、絶望的な状況に置かれた女たちは、裏切りと共謀、ひそかな連帯を通じて「騙し合い」、何とかそこから脱出する。

    この主題は、ジェンダーを超えて「しあわせな選択」でも繰り返されるだろう。誰が信頼でき、誰が騙しているのかが最後まで分からない物語。これこそ「サスペンス」であり、それがパク・チャヌク監督の手腕でもある。

    隠された「聖性」

    しかし、パク・チャヌク監督の真の魅力は、そのような過剰とも思える虚構とドタバタ騒ぎの果てに「聖性」としか言いようのない神秘がもたらされる点にある。

    考えてみれば、初期作品「3人組」でも、彼らが最後に立てこもるのはキリスト教会だった。キリスト教会へのパク・チャヌク監督の関心は、その後「渇き」で全面的に展開される。

    「渇き」は、心ならずも吸血鬼になってしまった真面目な神父が、吸血鬼という「悪」を退治するために奮闘する物語である。しかし、その喜劇的な外見とは裏腹に、映画ではカトリックの中心教義である「血の秘蹟」が主題化される。

    パク・チャヌク監督は、吸血鬼という反キリスト的な存在が、その血の神秘故にキリストに最も近い存在であるという背理を戯画的に描く。聖職者が信仰を貫く故に血を求めざるを得ないという不条理。そのために破滅していく者たち。映画では、そのような混乱の後に、神の光の中での魂の救済が逆説的に提示される。

    パク・チャヌク監督は、決して正面から信仰を語ったりしないが、作品の中にひっそりと神秘を顕現させる。「サイボーグでも大丈夫」の最後に、現実と夢想との境界を無効化して愛を成就させてしまった満天の星空。あるいは、「イノセント・ガーデン」で執拗に描き出されるこの世のものと思えない蜘蛛の姿。神は細部に宿り、求める者にそれは顕現する。

    このように、パク・チャヌク監督は、暴力と死、裏切りと謀略、騙し合いを通じて徹底的に混乱した世界の先にふと垣間見える神秘の顕現を求めて映画を撮り続けているように見える。

    「しあわせな選択」の結末

    だから、「しあわせな選択」の最後で、末娘がふともらす一言を決して聞き逃してはならない。その一言が、この暴力と狂騒に満ちたドタバタ劇への神秘の到来を告げているからだ。その時、観客はこの末娘が映画の中で示してきた幾つかの奇矯な振る舞いの意味を悟るだろう。彼女は、文字通り「GIFTED」だったのである。

    だから間違っても、この後に続くチェロの長く美しい独奏を、しあわせな選択がもたらしたハッピーエンドの表現などと誤解してはならない。

    あのチェロ独奏は、この過酷で死と暴力に満ちた世界の混乱を浄化し、嘘と欺瞞に満ちた家族を聖家族として祝福する音楽なのである。

    だから、映画の最後、主人公マンスが戦いの末に手に入れた工場で佇む姿は、決してディストピアなどではない。サイボーグとの純愛をやすやすと「騙ってしまう」パク・チャヌク監督にとって、この最後の場面は主演イ・ビョンホンに捧げる聖別された天国なのだろう。

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