
(以下、ネタバレありです。ご注意を!)
資本主義批判としての「しあわせな選択」?
パク・チャヌク監督の新作「しあわせな選択」は、一見すると社会派映画のように見える。
庭付き一戸建て、温室まであるマイ・ホームで幸せに暮らす会社員マンス。休日には美しい妻と2人の子ども、それに二頭のレトリバーと共に、庭でバーベキューを楽しむ。温室には、様々な盆栽が並べられ、まだ幼い娘はチェロを学び、妻もテニスと社交ダンスに余念がない。絵に描いたようなサクセス・ストーリー。
しかし、ある日勤めていた製紙会社が米国系資本に買収され、彼は解雇される。製紙業一筋で働いてきた高卒の彼に再就職の可能性はない。通販会社の商品倉庫での低賃金労働。家族も一転して生活が変わり、Netflixは解約、妻の趣味も断念し、犬たちは親の家に引き取られる。
追い詰められたマンスは、再就職に向けてとんでもないことを思いつく。それは、「ライバルがいなくなれば、仕事は手に入る」というものだった。。。
これはディストピア映画なのか?
ここには、韓国社会が抱えるすべての社会問題が詰め込まれているように見える。
格差と貧困、激烈な競争社会、就職難と過酷な低賃金労働。成功者は優雅な暮らしを謳歌してそれをSNSに掲載し、失業者はほとんど人間として扱われない。マンスがターゲットにする「ライバル」たちも、酒に溺れたり、慣れない仕事に誇りを失ったり。彼らは製紙業一筋に生きてきた真の意味でのプロフェッショナルであり、仕事を心から愛してきた者たちなのに、資本の論理は冷酷に切り捨てる。そして、合理化の果てには、AIを搭載したロボットだけが動き回る無人化された工場。
資本の論理を極限まで追求した過激な競争社会。
そこで生き残るためには、マンスのように手段を選ばずライバルを蹴落とすしかない。全世界で大ヒットした「イカゲーム」を思い起こさせるディストピア。
しかし、パク・チャヌク監督が、そんなシリアスな社会派映画を真面目に撮るはずがない。そもそも、「イカゲーム」を配信したNetflixは米国の大資本ではないか。そんな大資本が描き出す資本主義社会のディストピアなど、所詮はマーケティング戦略の産物でしかない。そんなものにパク・チャヌク監督は加担したりしない。
「語り=騙り」の映画作家パク・チャヌク
では、「しあわせな選択」とはどのような物語なのだろう。
これを考える前に、パク・チャヌク監督が何よりも「語り=騙り」の映画作家だということを確認しておこう。

例えば、彼の出世作「JSA」を思い出してほしい。一見すると、朝鮮半島の分断と38度線での軍事的対峙の中で、南北兵士の心の交流を描いたかのように見えるこの映画は、実は、38度線の荒野に潜む狐が兵士たちを騙した物語だった。
そんなはずはないと思う人がいればもう一度この映画を見直してみてほしい。映画の冒頭にはしっかり狐が映し出されている。そして映画の最後には狐に化かされた主人公が、あろうことか板門店の向こう側で行進している姿が映っていたではないか。
このように、パク・チャヌク監督は、朝鮮半島の分断の物語を見事に「騙り」直す。そもそも映画とは、このようにいかがわしい虚構の世界なのだ。
復讐三部作の系譜に連なる「痛い」映画
こうしてみると、「しあわせな選択」に描かれているのは、過激な競争社会の悲劇などでは全くなく、それを口実に繰り広げられる見るからに「痛い」物語なのである。
その「痛さ」は、言うまでもなく「復讐者に憐れみを」、「オールド・ボーイ」、「親切なクムジャさん」の復讐三部作の系譜を正統に継承したものに他ならない。復讐三部作の一本でも観たことがある人なら、パク・チャヌク監督の映画がいかに「痛い」かを身にしみて分かってもらえるだろう。
「復讐者に憐れみを」でアキレス腱を切られるソン・ガンホや、頭に袋をかぶせられて電気拷問されるペ・ドゥナ。あるいは「オールド・ボーイ」で金槌を振り回して敵を次々に倒していくチェ・ミンシク。その後、彼は自分で舌をかみ切るという壮絶なことまでやってのける。そして「親切なクムジャさん」の陰惨な子どもたちの処刑ビデオ。さらにそれに続く残された者たちの残忍な復讐。。。
パク・チャヌク監督の映画には、見るだけで「痛い」場面があふれている。もちろん、「しあわせな選択」も例外ではない。

「語り=騙り」のツールとしての「痛さ」
ただし、あわてて付け加えなければならないのは、パク・チャヌク監督の映画が、単にそうした残虐な拷問場面を目的にした映画ではないということである。
「マーターズ」や「ソウ」、「ホステル」のような最近流行のトーチャー・ポルノと異なり、パク・チャヌク監督は、殺人の場面をユーモアを込めて描く。登場人物たちの大げさで誇張された演技。そもそも殺しの場面自体が破天荒で、登場人物たちは、理性も外聞もかなぐり捨てて大声でわめき散らし、相手を罵り、そしてドタバタ喜劇にも似た乱闘を展開する。
こうした誇張された演出によって、映画で描かれる「痛み」は喜劇へと転化する。どうやらパク・チャヌク監督は、「どんなに痛い場面でも、しょせんは映画内の虚構でしかない」と告げているようだ。観客は、「痛い」場面に反応し、コミカルなドタバタ劇に笑っているうちに、気づいたらパク・チャヌク監督の「語り=騙り」の魔術にはまってしまう。これがパク・チャヌク監督作品の魅力である。
生き残るための「騙し合い」
そして「騙し合い」という主題。
パク・チャヌク監督もまた「生き抜くための戦い」を主題とする。ただし、その戦いに勝利するのは、武器でも権力への追従でもなく、奸智と連帯を通じてである。

「お嬢さん」を思い出してほしい。植民地支配下の朝鮮で莫大な財産を手にした男の支配下にあった姪のキム・ミニがいかに策略を駆使してその支配下から逃れたか。そこには、侍女として入り込んだ少女キム・テリとの連帯があった。
この主題は、ハリウッド進出を果たした「イノセント・ガーデン」でも、カンヌで監督賞を受賞した「別れる決心」でも繰り返される。言うまでもなく、復讐三部作の「親切なクムジャさん」も、愛する人間に裏切られて投獄された女が刑務所を脱出して復讐を果たす物語だった。
若い頃にヒッチコックに深く傾倒したというパク・チャヌク監督にとって、映画とは誰ひとり信頼できない中で、何とか味方を見つけて生き延びなければならない過酷な世界なのだ。圧倒的な支配の中、絶望的な状況に置かれた女たちは、裏切りと共謀、ひそかな連帯を通じて「騙し合い」、何とかそこから脱出する。
この主題は、ジェンダーを超えて「しあわせな選択」でも繰り返されるだろう。誰が信頼でき、誰が騙しているのかが最後まで分からない物語。これこそ「サスペンス」であり、それがパク・チャヌク監督の手腕でもある。
隠された「聖性」
しかし、パク・チャヌク監督の真の魅力は、そのような過剰とも思える虚構とドタバタ騒ぎの果てに「聖性」としか言いようのない神秘がもたらされる点にある。
考えてみれば、初期作品「3人組」でも、彼らが最後に立てこもるのはキリスト教会だった。キリスト教会へのパク・チャヌク監督の関心は、その後「渇き」で全面的に展開される。

「渇き」は、心ならずも吸血鬼になってしまった真面目な神父が、吸血鬼という「悪」を退治するために奮闘する物語である。しかし、その喜劇的な外見とは裏腹に、映画ではカトリックの中心教義である「血の秘蹟」が主題化される。
パク・チャヌク監督は、吸血鬼という反キリスト的な存在が、その血の神秘故にキリストに最も近い存在であるという背理を戯画的に描く。聖職者が信仰を貫く故に血を求めざるを得ないという不条理。そのために破滅していく者たち。映画では、そのような混乱の後に、神の光の中での魂の救済が逆説的に提示される。
パク・チャヌク監督は、決して正面から信仰を語ったりしないが、作品の中にひっそりと神秘を顕現させる。「サイボーグでも大丈夫」の最後に、現実と夢想との境界を無効化して愛を成就させてしまった満天の星空。あるいは、「イノセント・ガーデン」で執拗に描き出されるこの世のものと思えない蜘蛛の姿。神は細部に宿り、求める者にそれは顕現する。

このように、パク・チャヌク監督は、暴力と死、裏切りと謀略、騙し合いを通じて徹底的に混乱した世界の先にふと垣間見える神秘の顕現を求めて映画を撮り続けているように見える。
「しあわせな選択」の結末
だから、「しあわせな選択」の最後で、末娘がふともらす一言を決して聞き逃してはならない。その一言が、この暴力と狂騒に満ちたドタバタ劇への神秘の到来を告げているからだ。その時、観客はこの末娘が映画の中で示してきた幾つかの奇矯な振る舞いの意味を悟るだろう。彼女は、文字通り「GIFTED」だったのである。

だから間違っても、この後に続くチェロの長く美しい独奏を、しあわせな選択がもたらしたハッピーエンドの表現などと誤解してはならない。
あのチェロ独奏は、この過酷で死と暴力に満ちた世界の混乱を浄化し、嘘と欺瞞に満ちた家族を聖家族として祝福する音楽なのである。
だから、映画の最後、主人公マンスが戦いの末に手に入れた工場で佇む姿は、決してディストピアなどではない。サイボーグとの純愛をやすやすと「騙ってしまう」パク・チャヌク監督にとって、この最後の場面は主演イ・ビョンホンに捧げる聖別された天国なのだろう。
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