「顕現しないものの現象学」は、私たちの生命と意識を刷新する

「顕現しないものの現象学:生命・文字・想像界」
永井晋著(ぷねうま舎、2025年)

スピリチャルな世界を探求する者は、この世界を物質のみからなるとは考えない。物質を超えた精神、そしてその先の聖性について想いを馳せる。それは、信仰や幻想というよりも、むしろこの世界がそのようにあるという実感に基づいている。

その実感には、もちろん実体験と身体性が伴っているんだけど、なかなかそれを言語化することが難しい。だから、適確な言語化を求めて哲学書を読みあさることになる。そうした中で出会った本書は、そうした私の問題関心に真正面から答えてくれる本だった。

「顕現しないものの現象学」とは

「顕現しないものの現象学」は、そのタイトル通り、この世界に「顕現しないもの」を現象学によって把握しようという本である。

著書の永井晋は、既に「現象学の展開ー「顕現しないものに向けて」」(知泉書館、2007年)、「精神的東洋哲学ー顕現しないものの現象学」(知泉書館、2018年)で、顕現しないものの現象学という新しい哲学領域を切り拓いてきた哲学者。

本書は、こうした成果を一般の人向けにも分かりやすく伝えるために書き下ろされた入門書である。内容は濃密だが、その語り口は明晰。神秘主義に走ることなく哲学的に精緻な議論を通じて、「顕現しないもの」に迫っていく。

フッサール現象学の限界

言うまでもなく、現象学はフッサールが提唱した哲学潮流である。

その出発点は、デカルト以来の主観/客観二元論のジレンマを解消するために、外の世界が客観的にあるかどうかという判断の一度停止(=エポケー)を行うことにある。これによって、「事象そのもの」が意識に純粋に立ち現れてくるあり方を分析する超越論的還元が可能となり、超越論的主観性としての意識と世界の相関関係を解明できるようになる。

そこで基本となる考え方が「〜への意識」(=ノエシス)と「意識の対象」(=ノエマ)という概念である。意識はこのように常に志向性を持っており、超越論的還元を通じて、現象学はこの意識の志向性を分析する。この結果、現象学はデカルト以来の主観/客観図式を乗り越えることが可能となるとされる。

永井晋は、こうした現象学を基盤としつつ、「事象そのもの」に至るためには、フッサールの超越論的還元はさらに徹底されなければならないと主張する。

なぜなら、フッサールはエポケーによって「事象そのもの」に迫りながら、そこに意識の志向性を分析の道具として導入することで、「事象そのもの」の純粋な立ち現れを限定してしまい、この結果として「顕現しないもの」を把握し損ねてしまうからである。

「顕現しないものの現象学」が提示する世界の三層構造

ではどうするか。永井晋は後期ハイデッガーが、パルメニデスの「存在は存在する」という言葉を解釈したあるゼミナールで提出した「顕現しないものの現象学」という概念に着目する。そして、ハイデッガーの概念をさらに推し進めることで、「事象そのもの」に迫っていく。

その探求に使われるのが、レヴィナスの「他者の顔の現象学」、ミシェル・アンリの「受肉の現象学」、さらにアンリ・コルバンのイスラム神智学研究を踏まえた「イマジナル」、「創造的創造力」、井筒俊彦の「一即多」などの概念。こうした哲学者の概念を追いながら、永井晋は、イスラーム神智学者スフラワルディーの「照明哲学」が提示する世界の三層構造に到達する。

三層構造は、「顕現しないもの(一、神、生命)」の領域、「顕現しないものの現れ(中間界、多)」の領域、そして「地平世界(人、物質)」の領域の3つの領域からなる。

「顕現しないものの現れ」としての中間領域

デカルト以来の主観/客観図式は、人間の想像力を非理性的、非現実的なものとして切り捨て、さらに神を宗教の領域に追放することで、「地平世界」に自己を限定してしまった。この結果、西洋哲学は上記の三層構造の第2層にあたる「顕現しないものの現れ」の領域を分析対象とすることができなくなった。

しかし、「顕現しないものの現象学」は、西洋哲学が否定した「人間の想像力」に積極的な意義を見いだし、「顕現しないものの現れ」の領域を探求していこうというアプローチを取る。

では、この中間領域はどのように位置づけられるのか。スフラワルディーが神の顕現する中間界として設定した「アーラム・アル・ミサール」は以下のように説明される。

「アーラム・アル・ミサール」とは、(中略)地平的世界の一段上の神の内部にある純粋映像の世界です。それはプラトンの文脈ではイデア界であり、またユングの深層心理学に類似した元型の世界でもあります。井筒俊彦は「意識と本質」の中でこれを「形像的相似の世界」と訳していますが、それはまた「根源的なメタファーの世界」とも言われています。

つまり、通常の考え(コルバンの概念では「西洋哲学」)では想像されたイメージの世界はこの知覚された「現実の」世界の写し、あるいはメタファーとみなされますが、スフラワルディーでは逆に、創造的想像力によって想像された世界こそがオリジナル(元型)であり、知覚世界がそれの写しあるいはメタファーであると言うことです。

言い換えると、われわれが住むこの世界は、実在の現れとして潜在的多様性を孕むイメージからなる中間界が、その可能性を一義的に限定されて現れたものであり、その意味であくまでも仮の現れの世界だといういうことです。

中間界という概念が持つ可能性

超越的な神が、自己の内部に創り出した「純粋映像の世界」としての中間界。現実の地平的世界は、この中間界が限定されて現れたものであり、あくまでも仮の現れの世界にしか過ぎないという考え。ラディカルだけど、この世界観は、のっぺりと平板に続く現実世界を打ち破る可能性を秘めている気がする。

実際、永井晋は、ベルグソンが「創造的進化」で展開した「生の跳躍(エラン・ヴィタール)」や、ドゥルーズの「潜在性」「生命の内在哲学」、デリダの「脱構築」などの概念と呼応しつつ、「顕現しないものの現象学」が、新たな生の哲学となる可能性について語る。彼らもまた、生命に着目し、既存の言語体系を揺るがすことで、新たな世界の可能性について思索した哲学者だった。

神=生命との一体化を通じて私と世界を更新する

幾つか、印象的な言葉を紹介しておく。

同じテクストから新たな意味を引き出すことそのことが目指されているのではなく、その読みかえ、新たな意味の発見による動きを経験することこそが重要なのです。

(中略)カバラーのいう「共に動く」とはそういうことで、そこから新しい意味を生み出すことは、それを読む自己自身が新しくなることです。意識の抑圧から生命を解き放つことで、自分が創造的に、まったく新たに変わっていく。これは自己が自己同一性を破壊して新しくなっていく経験として、自己同一性を前提とする西洋哲学にはない考え方です。

そして重要なことは、このような創造的な「動き」の経験が、「<精神的>東洋」の経験であり、そしてそれが「顕現しないものの現象学」の一つの形だということです。

神の痕跡を通して、神の媒体になって神を経験する。つまり神の痕跡のテクストを新たに解釈する。さきほどのコルバンの「創造的想像力」も、一般的な想像力とは違って、それは神の想像力であるわけです。神が私の想像力を通して、それを媒体として自己自身を振り返って像化、あるいはイメージする。それが創造的想像力であり、「実在そのもの」をその内側から映すことですね。

こうして「顕現しないものの現象学」は、この世界にありながら私自身が神=生命の流れに即して自己を日々更新し、さらに神=生命の想像力の媒体となることで世界を再生させていくという新たな人間像を提示する。

永井晋の議論は、一見するとフッサールの現象学をいかに乗り越えるかという問題を扱っているように見えるが、彼の議論が提示する新たな世界観と人間像は、日常世界に埋没してしまっている我々に生きる力を与えてくれる力を持っている。

アート&スピリチャルの芸術論に向けて

それだけではない。彼の議論は、まさにアート&スピリチャルをこれから考えていく上で鍵となるコンセプトを提供してくれている。

人間は、なぜ日々の生活から離れて表現し、アート作品を生み出すのか。その営みは、深いところで、永井晋が提示する中間界とつながっており、我々は日々、想像力を駆使した創造活動によってこの世界へ往還することで、我々自身の生を更新しているのかもしれない。だとすると、アートの世界は、創造的想像力を駆使して地平的世界から脱出し、中間界に参入することで、スピリチャルなものとふれあう営みだと考えることもできる。

「顕現しないものの現象学」を通じた、新たな芸術論の可能性。考えただけでもわくわくさせられる。

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