魔法少女はセカイを救済できるか?

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「魔法少女まどか☆マギカ ワルプルギスの廻天」が公開されたので早速観に行く。考えてみれば、コロナ禍の前から公開が予告されていたのだから、本当に遅れに遅れての公開。ただ、それだけ待った甲斐のある充実した作品だった。

セカイ系の物語としての魔法少女まどか☆マギカ

魔法少女まどか☆マギカ・シリーズのような作品はよく「セカイ系」と呼ばれる。

セカイ系というのは登場人物達の小さな人間関係が、世界の危機や終末という大きな運命に直接結びつく物語類型である。魔法少女まどか☆マギカシリーズも、世界の終焉や世界そのものの書き換えが語られる壮大な物語でありながら、舞台は見滝原という架空の地方都市に限定され、登場人物も「まどか」と「ほむら」という二人の少女を軸に、数人の少女だけだという点で、セカイ系の1つである。

この世界で、魔法少女達はキュウべえとの契約によって魔女達と戦う運命を引き受ける。しかし、彼女たちの世界を救いたいという善意は、結局キュウべえたち異星人のエネルギー収集に利用されるだけだというのが、この世界の基本構造である。そして、このような理不尽の世界をいかに解消するか、というのが魔法少女まどか☆マギカ・シリーズの基本的なテーマとなる。

高度資本主義からの脱出の物語

いうまでもなく、この世界観は、人の欲望のみならず、善意や愛情さえも搾取の対象とする高度資本主義社会の寓意である。魔法少女たちは、このように矛盾した世界に目覚めてしまったために、他の少女たちのように平和な日常生活に戻れず、世界の救済のために戦いながら、一方でその戦いのむなしさに傷つき、力尽きて倒れる。

では、この世界から脱出するためにはどうすれば良いのか。

1作目では、「すべての魔法少女たちを救う」という願いによって、まどかが「円環の理」という人ならざる存在に変容し、世界を魔法少女と魔女のいない世界に書き換えてしまうことで救済が図られた。その代償として、まどか自身は人々の記憶から消し去られ、この世界から存在しなくなる。ただ一人、時間を超越することができるほむらだけには、まどかのリボンと記憶だけが残されて。

2作目の「叛逆の物語」では、まどかの記憶を維持したほむらによる世界の書き換えがなされる。ほむらは、自身を悪魔化させることで強大なエネルギーを得る。そして、「円環の理」となったまどかから、人間の記憶の部分だけを引き抜くことで、彼女をこの世界に実体化させ、自分は悪魔として世界全体をコントロールする存在と化す。そしてほむらは、1作目で渡されたリボンをまどかに返却する。

このように、セカイ系の物語は、ある強大な力を持った存在が、世界を書き換えることで物語が終わる。すべての記憶が書き換えられ、世界全体が変わってしまうために、物語はそこで完結してしまうことになる。にもかかわらず、2作目の「叛逆の物語」が可能となったのは、神に等しいまどかに対して、闇の力としてのほむらを対置し、神と悪魔の二元論の世界を構築できたためである。

そこでは、まどかの「普遍的で無償の愛=アガペー」に対して、ほむらの「個別的で奪う愛=エロス」が大きな意味を持つことになる。(余談だが、愛のもう一つの概念「互いに対等な立場で心を通じ合わせる友愛・親愛=フィリア」は、主題歌されることはないけれど、1作目から3作目を通じて随所に顔を覗かせてサブテーマとなっている。)

「ワルプルギスの廻天」はセカイをどのように救うのか

では、3作目である「ワルプルギスの廻天」は、世界の書き換えをどのように行うのだろうか。一般に、こうしたセカイ系の物語をさらに書き換えていく方法は幾つか考えられる。1つは物語に仕掛けられた謎を解き明かすこと、1つは物語の起源に遡行すること、もう一つは世界の外部を導入すること、である。そして、「ワルプルギスの廻天」も、これに沿って展開していく。

ネタバレはしないけれど、「ワルプルギスの廻天」でも、ワルプルギスの謎の解明が試みられる。そして、悪魔=ほむらがすべてを支配するはずだった世界に外部からの侵入者が現れてほむらに対抗し、さらに魔法少女と魔女の戦いの舞台となった世界の起源の物語が語られるだろう。それは、前2作で提示された謎を回収しつつ、新たな戦いを導入する点で、十分に人を引きつける第3の物語になったはずである。

しかし、どうやらこの3作目の制作チームは、こうした結末に満足しなかったようだ。これは憶測でしかないけれど、当初予定されていた公開から遅れに遅れて、ようやく今になって劇場公開された背景には、コロナ禍や「シン・エヴァンゲリオン」、「鬼滅の刃」などのモンスター級の作品とのバッティングを避けるという現実的な理由だけでなく、この物語の結末をどうつけるかを巡って、制作チーム内で議論が続いていたのかもしれない。

その理由は、十分に理解できる。第3の物語が、これまでのセカイの外部として、起源の物語を導入したとしても、結局、それが物語として語られてしまった時には、セカイの内部に回収されてしまうからだ。それは、今のセカイを超越するのではなく、起源の物語を導入した新たなセカイに乗り換えることを意味するに過ぎない。それでは、問題は解消されない。

セカイの書き換えから永劫回帰へ

ではどうするのか。「ワルプルギスの廻天」では、この第3の物語の結末に異議を唱えるカギとして、「記憶」と「縁(えにし)」が導入される。いくらセカイが書き換えられ、すべてがリセットされたとしても、リセットされ続ける限り形を変えて生き残る世界の矛盾。これに立ち向かう唯一の方法は、「記憶」と「縁」であり、ほむらは悪魔としての力を発揮してセカイの書き換えを阻止する。

その後に残された世界は、おそらく永劫回帰の舞台となるだろう。ただし、ドゥルーズが指摘するように、永劫回帰とは同じものの反復ではなく、都度、更新される出来事の到来であり、そこでは縁を通じて記憶が豊穣化していく世界なのだろう。

次回作の可能性

このように見ていくと、気が早い話だけど、4作目はどうなるのかが気になってくる。この映画の終わりで、キュウべえがもらす独り言が、その方向性を予感させる。おそらくそこでは、新たに登場した「外部」が、キュウべえに象徴されるシステムに取り込まれて新たな収奪の構造が生み出されるだろう。キュウべえは、これまで世界を俯瞰する傍観者として振る舞ってきたが、次作ではおそらくより積極的な役割を担うことが予想される。そして、物語のテーマは、記憶を巡る闘争として展開される可能性がある。

キュウべえという、ある意味で現代の高度資本主義を体現する象徴を軸に据え、個人の欲望や生きがいだけでなく、そのアイデンティティの核となる記憶すらもシステムに取り込んで「利潤」を追求しようという物語が仮に実現すれば、それは現代資本主義論として極めてユニークなものになるだろう。少なくとも、「人新世」や「黙示録」という扇情的なタイトルで旧態依然の資本主義批判を展開するよりも気が利いている。ただそれが、グローバルな巨大資本であり、今やコンテンツ産業を経営の中核に置きつつあるソニーグループの子会社であるアニプレックスが制作するという点が皮肉ではあるけれど。

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