
写真における男性原理と女性原理
「写真を撮る」は英語でShootだけど、その語感通り、写真展にはどうも男性原理が目についてしまう。乱暴なジェンダー論に走りたくはないけれど、男性による写真展にはどうしても撮影対象を切り取り、あるいは一瞬の姿を捉え、さらにはある原理や美意識に基づいて撮影対象を加工したりフレーミングするという傾向があるように感じる。それは、一方的で、暴力的で、理念的で、視覚と動作に還元されてしまうアートだ。
これに対し、女性写真家の作品は、どこか優しく、双方向的で、視覚だけに還元されない皮膚感覚や共生感覚、あるいは芸術という大文字の理念ではない小さき者への温かいまなざしが感じられる。もちろん、女性写真家の中にはフェミニズムの観点から男性原理を批判的に捉える作品もあるけれど、それは一方的な糾弾というよりも、どこか一方的に見られる状況からすっと身を翻して男性原理を相対化するような軽やかさがある。
ヒカリエホールで開催されている「まなざしの奇跡 日本女性写真家の冒険」展は、そうした日本の女性写真家の作品群を一望できる企画展である。既にいろいろな個展やグループ展で見慣れた作品が並んでいるけれど、中にはこれまで知らなかった作家もいるし、そもそもこういう形で1つの流れの中で女性写真家の作品を見てみると、彼女たちが個人として行ってきた試みが、ある大きな流れを作っていくことに気づく。
この展覧会は、フランスのリヨンで開催された企画展のコンセプトを引き継いで日本に持ってきたものだけど、基本コンセプトを含めて好感の持てる展覧会だった。

関係性を物質化する多和田有希
例えば、多和田有希のI am in Youは、自身の母親との協働で、写真プリントを焼きコテで焼いて1つの作品に仕上げている。その作品には、作家自身と母親の姿が複雑に絡み合いながら二重三重に映し出されていく。果たせなかった希望や母親との確執など、簡単には言語化できない記憶や感情の堆積が、そのまま映像化されたような作品。
そこには、写真を撮るという行為を通じて、対象との距離を無効化し、撮る者と撮られる者の関係性がそのまま写真に反映されてしまうような感覚がある。そして、そうしたプロセスを経て生み出される情動に、作品を見る観客も巻き込まれてしまうようだ。


皮膚感覚が訴えかけてくる石内都
そして記憶。既に何度も見ているけれど、石内都の「ひろしま」、「フリーダ」、「マザーズ」などの作品を見ていると、個人的な記憶や集合的な記憶を、その対象となる人が肌につけていた衣服や装身具を通じて浮かび上がらせる手法は、やはり女性ならではのものだと感じられる。服のしわの一つ一つまでが透けて見えるような繊細な写真。あるいは、傷跡や原爆の炎によってダメージを受けた装身具の表面。
これらの写真は、何か大きな暴力や長く辛い家事労働の集積などを予感させながらも、ただ表面にこだわることで、何よりも皮膚感覚的にある情動を訴えかけてくる。それが石内都の作品の魅力だと思うし、女性写真家ならではのアプローチだと思う(「女性写真家」という言葉そのものに異議を申し立てる石内さんには失礼な言い方かもしれないけれど)。


片山真里の身体性と変身への意思
さらにその身体性をポートレートとして追求しているのが片山真里。
先天性の病のために両足を切断して義足となり、左手もカニのような二歩指という障害を抱える彼女は、その障害を隠すのではなく、逆にその義足を誇張するポートレートをとり続ける。身体には、ファッションショーにでも出てきそうな衣服や下着をまとい、背景にも少女趣味やゴシック趣味の装飾であふれている。それが圧倒的に美しい。それは女性がもつ変身への欲望なのだろうか。
ここでも安易なジェンダー論に走りたくないけれど、化粧し、髪型をセットし、下着も含めて様々な衣装で自分の姿を演出し、さらに変身し続けることができる女性ならではの表現形態があると感じる。そこには、自身の内面を空疎なコトバや観念ではなく、物質的に表現し、さらにそれを世界に向かって押し出そうとする強い意志が感じられる。
この系譜に、ガーリー・フォトでメジャーとなったHiromixを付け加えても良いだろう。



シャーマンとして異界の物語を召喚する志賀理江子
あるいは物語への意思。
志賀理江子の螺旋海岸をテーマとした写真作品は、土地の記憶やそこに住む人々の姿を写真に収めながら、その土地の民話や神話に沈潜していく。その過程で浮かび上がってくるのは、この世とは思えない世界。そこに映し出されているのは、本当に現実の世界なのだろうか、それとも人々の無意識が土地の精霊やそこで亡くなった人々と共鳴して出現させた異界なのだろうか。
彼女の作品群を見ていると、此岸と彼岸の境界線が混濁していくような錯覚に囚われる。おそらくそれは、志賀理江子自身が、シャーマンや依り代となって異界の者たちを召喚する能力を行使しているからなのだろう。シャーマンとしての才能もまた、女性の持つ強みの1つである。
この系譜には、近年、演劇にも活動範囲を広げつつ、「神話機械」で日本書紀の神話の世界を作品化しつつあるやなぎみわを加えても良いし、ハワイの日系人コミュニティの盆踊りの世界をとり続ける岩根愛を加えても良いだろう。



蜷川実花の魅力を再発見
今回のうれしい発見の1つは蜷川実花の初期のモノクロ作品に出会えたこと。
蜷川実花というと、ガーリー・フォトで注目を集め、その後、極彩色の花のような過激でファッショナブルな作品でメジャーになった作家という印象しかなかったけれど、今回、初期のモノクロによる水中写真シリーズを見て、改めて彼女の才能に気づかされた。
そこには、水に包まれた至福の中で何かと邂逅する瞬間を捉えようという強い意志が感じられる。その意志は、同時にその何かが生み出されることに対する畏敬の念もあるのだろう。そんなことを考えさせる写真を撮っていることは発見だった。
それともう一つ、今回の展覧会のために制作されたインタビュー・ビデオの中で、蜷川実花が「ガーリー・フォトで注目を集めるというのは資本主義の原理に便乗するようでいやだったけれど、もしそれで呑み込まれてしまうようならそれだけの才能だったと思えば良いと割り切って、制作していた」と発言していたことにも好感が持てた。あえて資本主義の波に乗りながら、それを乗り越えていくこと。普通の人にはなかなか難しいことだと思うけれど、それにあえて挑戦した彼女の姿勢には共感できる。


今回は取り上げることができなかったけれど、繊細な手つきで世界の断片を優しくすくい上げ、そこに生と死、光と影のうつろいを映像化し続ける川内倫子も含めて、男性写真家とは異なる写真体験を提供してくれる女性写真家の作品をこれからも追いかけていきたいと思う。

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