ガス・ヴァン・サント監督「マイ・プライベート・アイダホ」

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長年名画を紹介し続けてきたシネスイッチ銀座が閉館する。若い頃から多くの名画をこの映画館で観てきた者としては本当に残念だけど、配信サービスやYouTubeで世界中の映画に簡単にアクセスできるようになった現在、こうした名画座も何度目かの再編の時期に来ているのだろう。感謝の意味を込めて、ガス・ヴァン・サントの初期作品デジタル・リマスター版上映会に駆けつける。

(以下、過去作品なのでネタバレありです。ご注意を!)

リバー・フェニックスが主演男優賞を受賞した初期の傑作

まずは「マイ・プライベート・アイダホ」。

1991年の作品で、リバー・フェニックスがヴェニス国際映画祭と全米映画批評家協会賞で主演男優賞を受賞している。「スピード」でブレイクする前のキアヌ・リーブスが共演。当時のガス・ヴァン・サントはインディペンデント系の映画監督という位置づけだったけど、この豪華な俳優陣をみる限り、メジャーでも十分にやっていける実力を持っていたし、実際、そうなった。「ドラッグストア・カウボーイ」と並んで、初期の傑作の1つ。

「孤独な青年の成長」という主題

ガス・ヴァン・サントの作品にはいくつかの共通点がある。

基本的な主題の1つが社会から疎外された青年(多くの場合、孤児)の孤独と成長の物語。彼は何らかのトラウマを抱えているが、父のような存在である精神的指導者と出会い、彼または彼女の導きによって社会復帰を果たそうとする。そして指導者は、役目を終えたかのように突然の死を迎える。「グッド・ウィル・ハンティング」、「小説家を見つけたら」、「ドント・ウォリー」、「永遠の僕たち」などの作品に繰り返されるテーマ。もしかしたら、それは彼の個人的な体験を踏まえているのかもしれない。

マイ・プライベート・アイダホも同じ系列の作品である。

主人公のマイク(=リバー・フェニックス)は、父親がおらず、母親も失踪したために年が離れた兄に育てられたが家出し、今はストリートの男娼として暮らしている。彼は精神的なストレスが生じると突然の睡魔に襲われて昏倒するナルコレプシーに悩まされており、ドラッグにも手を染めて自堕落な生活を送っている。

そんな中、マイクは男娼仲間で親友のスコット(=キアヌ・リーブス)と再会する。スコットは、実はポートランド市長の息子で裕福な家庭の出身だが父親に反発してストリート暮らしをしていたのだった。二人は、ある日、スコットのバイクに乗って、マイクの故郷アイダホに向けて旅立つ。目的はマイクの母親との再会。果たしてマイクは母親を見つけることができるのだろうか。。。

カウンター・カルチャーの魅力

インディペンデントの自由さもあり、この映画にはショッキングな主題が幾重にも盛り込まれている。男娼の生活、ストリート暮らしの若者コミュニティの狂騒、ゲイ・カルチャー、ドラッグ、ナルコプシー、強盗、そして近親相姦。。。

ガス・ヴァン・サントは、こうしたカウンター・カルチャー的生き方が好きなのだろう。そこに描かれる世界は、破綻してめちゃくちゃで悲惨に見えるかもしれないが、住人はどこか楽しそうである。彼らは、現在を享楽的に過ごしているだけでなく、精神的な指導者として詩人かつ盗人のボブを慕い、廃屋となったホテルに集まっては騒ぐ。そこには何かコミュニティの一体感が感じられる。何ものにも捕らわれない自由な生活へのあこがれ。たとえそれが悲劇に終わるとしても、束の間、登場人物たちはその自由を謳歌し、自らを解放する。これを描くガス・ヴァン・サントの手つきは限りなく愛おしい。

言うまでもなく、これを支えるのが、リバー・フェニックスのどこかこの世から遊離した狂気の演技。さすがヴェニスの主演男優賞を受賞しただけあって、強烈な印象を残す。思えば、彼は80年代のイコンの一人だった。

アメリカの原風景

そして、作品のテーマでもあるアイダホのどこまでも続く道。

波のようにうねりながらも、一直線に山に向かって進んでいくハイウェイが、何度も登場する。時には、マイクが幻視する故郷の風景として、時には実際に二人を取り囲む風景として。アメリカ中西部の原風景とも言えるこの場面はやはり強烈だ。

マイクがナルコプシーの発作に襲われる度に幻視する風景も印象的である。

まだ一歳だった彼が覚えているはずもない母と自宅。あるいはまだ会っていない母の膝に頭を乗せて眠る自分。何も問題はないと語りかける母、泣いている幼児の横で踊り続ける母・・・・。こうした母の記憶に、アイダホの風景や激流を遡るサケの群れが唐突に挿入される。これはマイクの心象風景なのか、それとも実際に経験した風景の記憶なのか。この場面が入ることで、映画は豊かに膨らんでいく。

2つの「父の死」

映画は、マイクの精神的父親であるボブと、スコットの実の父親の葬式で幕を閉じる。

スコットの父親は、ポートランド市長として成功し、その葬式は正式かつ厳粛に行われる。それを横目に見ながら、ボブを父親と慕っていた若者たちは、ボブを入れた棺桶を埋葬するでもなく、その周りで歌を歌い、踊り、挙げ句の果てに棺桶の上に折り重なる。その祝祭的とも言える埋葬を横目で見るスコット。彼も一時はボブを父と仰ぎ、その生き方に学んだが、結局、ボブを切り捨て、エスタブリッシュメントとしての生活に戻ってきた。そこにどんな想いがあるかを映画は明示しないが、二つの埋葬を対比させることでそれは明らかだ。

スコットの視点から見れば、この映画は、父への反発から束の間の無軌道な生活を謳歌した若者が、実の父の死と、精神的な父の象徴的な殺害を経てエスタブリッシュメントに戻り、良き妻を得て大人になるという「放蕩息子の帰還」あるいは「父殺し」の物語である。

マイクの視点から見れば、近親相姦で生まれた子どもという呪われた生に捕らわれ、実際にナルコプシーの発作という重荷を背負いながら、ストリートの男娼という底辺の生活を余儀なくされた者が、何とか母に再会して自分を肯定してもらい、生をやり直そうとして果たせなかった物語となる。マイクの物語は一見すれば悲惨なものに見えるが、ボブを指導者とするコミュニティと、彼らが拠点とする廃墟のようなホテルにおける祝祭感覚が、これを救っている。

救済はあるのだろうか

映画の最後、再びマイクはアイダホのどこまでも続く一本道に立ち、ナルコプシーの発作で倒れる。通りがかったおんぼろトラックに乗った二人は、マイクを助けようとせず、持ち物と靴を奪って立ち去る。やがて一台の車が止まり、マイクを助手席に乗せて立ち去る姿がロングショットで映し出される。マイクは、果たしてこの後どのような生を歩んでいくのか。ハッピィエンドにはほど遠い結末だが、ロングショットで捉えられたアイダホのどこまでも続く荒野の一本道と、その先に控える山嶺からは、どこか救済の予感も感じられる。

久しぶりに90年代の名作を大スクリーンで見直すのも悪くない。

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