村上春樹の新作「夏帆」はどこか懐かしく優しい

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村上春樹との付き合いは、「風の歌を聴け」以来。新刊が出る度に律儀に本屋に駆けつける習慣もかれこれ半世紀近くになる。

何というか、特に新しい話題もないけれど、たまに会うとつい色々と話し込んでしまう懐かしい友人のような感覚。長い人生には、何人か(何冊か?)そういう作家がいてもいいと思う。

夏帆に仕込まれた村上春樹ワールドの過去作品

ということで、村上春樹の新作「夏帆」。私のような読者には、何というか懐かしの歌謡ショーみたいで、登場するキャラやエピソードの一つ一つに過去の作品のあれこれを投影してしまう。

そう言えば、悪を倒すために導いてくれる存在は「羊をめぐる冒険」以来だなとか、慎重に針を差し込むのは「海辺のカフカ」だったっけという感じ。物語世界の中に別の物語が入る入れ子構造も、「風の歌を聴け」三部作から登場し始め、本格化したのは「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」だよな、とつい過去の作品を思い出しながら読んでしまう。

もちろん、冒頭に登場していきなり「悪」全開を発揮する不気味なキャラは村上ワールドの常連だし、夏帆を優しくサポートしたり逆に敵対的に振る舞う動物キャラも村上ワールドに必須の要素である。

深層意識から湧き出るイメージの力

もちろん、だからと言ってそれが悪いわけではない。

村上春樹は、自分の内面に深く沈潜してそこから掘り起こしてくるイメージとエピソードを作品世界に使うという作業を、かなり意識的にやっているし、それが多くの読者の共感を呼んだのは紛れもない事実。

ちなみん、この手法は、ユング派精神分析の泰斗である河合隼雄先生のお墨付きを得ている。村上春樹は、河合隼雄先生との対談「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」の中で、物語が持つ力について語り、無意識から湧き出てくる物語の不思議さについて語った上で、それが彼の執筆のある種の原動力になっていると言う。そういう考えは、河合隼雄先生が専門とするユング心理学のアーキタイプ(元型)やアクティブ・イマジネーションの考え方と深く通じている。多分、村上春樹は、この対話を通じて、自分の方法論が間違っていないと確信したはずだ。

(余談だけど、20世紀末には様々な人が河合隼雄先生詣でをして対談を繰り広げた。それはまるで20世紀末のある種行き詰まりを見せつつある文化状況の中で、対談を口実に河合隼雄先生のカウンセリングを受けようと皆が大挙して押し寄せたような感じだった。そして、村上春樹も、中沢新一も癒やされていた。それほどまでに河合隼雄の「聴く力」は素晴らしかった。)

少し長くなるけれど、村上春樹の文章を引用しておこう。タイトルは「小説と癒やし」である。

前にも言ったように、小説を書くことによって自分が癒やされるということはあるわけですが、それはもちろん同時に読者を癒やすものでなくてはならないわけです。そうしないことには、小説として作用しません。もちろん読者のある部分を、多かれ少なかれ治癒するということであって、それは魔法の杖ではない。だれにでもどこでも通用するわけではありません。

でもそれが部分的にせよ、うまくいけば、その作用がもう一度作家にフィードバックしてくるという感覚があります。それによってまた自分が励まされ癒やされるという感覚があります。多くの作家はそれを「手応え」と呼んでいます。それがないと、作家が作品を長く書き続けるのはむずかしいのではないかと思います。

でもそこにはそれと同時に、裏返しの憎しみのフィードバックのようなものもあります。プラスの作用の裏側にはかならずマイナスの作用もあるわけです。ときどきそれを感じて、辛い気持ちになることもある。でも僕は作家というものはそのようなマイナス=憎しみもそれなりにきちんと呑み込んでやっていかないと、深みが出てこないだろうと思っています。そこまで行ってやっと本物になれるのではないかと。

村上春樹にとって、書くことは自身の深層から湧き出るイメージを駆使して物語を語ることで、自己を治癒し、さらに読者にも治癒の力を与えるプロセスなのかもしれない。

癒やしと励まし

新作「夏帆」も同様である。

多分、この物語は村上春樹を新しく読む読者の心に深く響くものがあるはずだ。特に若い女性にとって、母との関係性を見直して自立していく物語として、あるいは自分らしい生き方を見つけるための徴を世界に見いだす物語として、この本は様々な勇気と励ましを与えてくれるだろう。

世界は、悪意と暴力と支配に満ちているかもしれないけれど、同時に優しく手を差し伸べてくれる仲間や、迷ったときに行くべき方法を指し示してくれる導き手も存在する。さすがに「1Q84」や「ねじまき鳥クロニクル」のように歴史と向き合う大きな物語は期待できないけれど、この本にもささやかな冒険とささやかな救済・和解が用意されている。そして、この物語を推進するユニークなキャラクターたち。これらが村上ワールドの大きな魅力の一つだと思う。

ささやかな謎

ちなみに、こういう年季の入った村上春樹の読者でも、「あれ、もしかしたらここは新しい展開かも。。」と思った点がいくつかありました。

一つは村上春樹の長編作品で初めて女性が主人公になった点。これは川上未映子との対談が影響しているかもしれませんね。(詳しくは川上未映子との対談集「みみずくは黄昏に飛び立つ」をお読みください)

ほかにも幾つかあるのですが、ネタバレは避けた方が良いですね。ヒントは、例えば「このキャラをこんなかたちに使うのか!」という感じ。数えたら私は5つ見つけましたが、さてあなたはいくつ見つけることができるでしょう?もし5つ以上見つけたら、こっそり教えてください。

最後にもう一言。

この本のタイトル「夏帆」の由来は何でしょうね。私は、冒頭で「夏帆」が登場した瞬間に、女優の夏帆さんを思い浮かべました。そしてその印象は、この本の最後まで変わりませんでした。まさかとは思うけど当て書き?真偽のほどは定かではないけれど、もしもこの作品を映像化する機会があれば、ぜひ夏帆さんに主演女優か(アニメの場合は)主演声優をやってもらいたいと思います。

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