シモーヌ・ヴェイユ・アンソロジー
河出文庫「シモーヌ・ヴェイユ・アンソロジー」を読む。今村純子編訳。エッセイの選定も翻訳も素晴らしい。信頼できる専門家の信頼できるアンソロジー。シモーヌ・ヴェイユという人の思想が少し身近に感じられた気がする。
僕自身は、シモーヌ・ヴェイユについてはほとんど初心者である。「重力と恩寵」も「工場日記」も「神を待ち望む」も読んでいないし、もちろん「哲学講義」も読んでいない。一般的な知識として、フランス出身のユダヤ人でありながらカトリックに惹かれて神との対話を繰り返し、哲学の教師でありながら深く労働運動にコミットして、労働者のことを理解するために自ら工場での労働を経験した思索者であるとことを知っている程度。
たまたま本屋をぶらぶらしていたら、新刊書コーナーに平積みされていたので手に取っただけなんだけど、パラパラとめくったら引きずり込まれてしまい、そのまま購入して帰宅することになった。その文章は難解だけど、彼女の思考にはどこか心惹かれるものがある。
例えば、工場労働者を巡る思索。彼女は、本来の人間のあり方という観点から工場労働を考察する。通常の社会運動家であれば、工場労働の非人間性とは、低賃金で劣悪な環境で働かされている労働者の待遇改善を主張するだろう。当時、まだ影響力のあった共産主義や社会主義はまさにそのような考え方であり、労働に応じた正当な報酬の支払いと労働環境の改善が要求の中心となる。
でも、シモーヌ・ヴェイユはそういう考え方をとらない。彼女は、人間の魂の領域から労働についての思索を展開する。本来、労働は人間の魂にとって善であり、自己実現であり、神との対話へと至る道のはずである。しかし、工場労働は、こうした労働の本来のあり方から外れ、労働者の魂を否定し、上からの命令によってその自己実現の可能性を閉ざし、結果的に、労働者を魂が失われた状態に引きずり下ろす。これが、工場労働の根源的な悪であり、これは賃金引き上げや労働環境の改善などでは決して解消されない問題である。
なるほど、と思う。シモーヌ・ヴェイユ自身が、未熟練労働者として工場で働いた経験があるからこそ、この思考は説得力を持つ。賃金の引き上げを要求する社会運動家は、工場労働がはらむ本質的な悪から目を背け、問題を報酬の多寡という世俗の問題に還元してしまうことで、結果的に問題の悪化に加担しているのだ。
こうした彼女の思考は、「神への愛と不幸」と「人格と聖なるもの」の2つの論文でさらに深められる。人間は、不幸であるとき、神を待ち望む。神とは愛そのものである。しかし、人間にとって、神は無限に遠い存在であり、理解を超えた存在である。このような神の恩寵に人間はどうして浴することができるのだろうか。シモーヌ・ヴェイユは、「不幸を通じて」と答える。不幸な人間は、無力で、ただ神の恩寵を待ち望む。その徹底的な無力、無私、無為こそが神の恩寵に至る道なのだ。読んでいると、時々、彼女の思想は仏教に近いのではないかと思えてくる。不幸を契機に、徹底的に自己を捨て去ることで、神へと至るという発想は、仏教の「無私」の思想と共鳴する。
この思考は、さらに「人格」を否定し、このような近代的概念を解体して「非人格」的な部分に目を向けることでのみ、神との対話のチャンネルが開かれるという「人格と聖なるもの」へと発展していく。近代的自我という狭い枠組みから解放されて初めて、広大な神の領域へと至るという思想。それは、例えば、エックハルトの教えとも響き合うものである。近代哲学を学び、労働運動に深くコミットした人が、その思考を発展させていって中世の神秘思想家と出会う。そこに僕は魅力を感じる。
シモーヌ・ヴェイユは、結局、1943年、34歳で亡くなる。彼女は、滞在先のロンドンで、結核に冒されながらも執筆を続け、「自分は飢えている英国の子供たちより多くを食べることができない」と主張して食を絶った。死因は栄養失調と肺結核による衰弱。すさまじい生き方だと思う。何が彼女にこうした生き方を強いたのだろう。「重力と恩寵」などの一連の著作を手に取りたくなった。