濱口竜介監督「ハッピーアワー」

濱口竜介監督の新作「ドライブ・マイ・カー」の公開前に、「ハッピーアワー」を観ておこうと早稲田松竹に駆け込む。お盆とは言え、平日の朝10時から午後4時10分までの長丁場。9時40分頃に到着したのに既に座席の大半は埋まっていた。関心の高さを感じる。

この作品は、2015年の作品。主演女優の4人がロカルノ国際映画祭で最優秀女優賞を受賞している。濱口監督は、「Passion」、「親密さ」と作品を重ねてきて、この作品で世界の巨匠の仲間入りを果たした。

物語は、4人の女性を巡って展開する。看護師のあかり、専業主婦の桜子、アート・スペースのキュレーターの芙美、そして科学者の妻の純。37歳になった彼らは、それぞれの悩みを抱えながらもそれを語り合えずにいる。しかし、芙美のアート・スペースでの「重心」を巡る身体ワークショップに参加し、その打ち上げでの会話を機に、それぞれの悩みが明らかになり、4人は時に助け合い、時には激しい言葉をぶつけ合いながら、新たな生に向かって一歩踏み出していく。。。

上映時間5時間17分という長さにもかかわらず、映画を観ているときは、その長さをほとんど感じさせない。ただ画面の中に展開される感情の強度に引きずり込まれ、何気ないように見えながら一カット一カットに様々な仕掛けが施されている音と映像の連鎖に身を委ねているうちに、最後まで観終わってしまう。終わってもなお、この映画を見続けたいという気持ちにさせる不思議な魅力を持った映画である。

この映画は、即興演技ワークショップの参加者が演じているとのこと。演技経験がほとんどない人たちをカメラの前に立たせ、彼女たちの感情が乗っていくようにセリフが何度も修正されたとのこと。その結果、劇的でありながら自然な会話が実現した。この点でも、濱口監督の演出力を感じる。

この映画については、既に多くの論考が発表されているし、未読だけれど三浦哲哉さんの「『ハッピーアワー』論」も刊行されている。だから、まとまった感想というよりも、観終わった後に僕の頭の中を駆け巡っている言葉の切れ端を書き付けておくことにしたい。

ナラティブとボイスの複数制

この映画の第一印象は、複数のナラティブとボイスが織りなされた作品だというもの。女たちの会話、それぞれの主人公とそのパートナーとの会話、テキストの朗読、ワークショップ講師の説明、トークショーでの対談と質疑応答、裁判での証人喚問、旅先で知り合った女の子が語る奇譚・・・。これほどまでに様々な形態を取った語りが持続する作品は日本映画では珍しい。さらに、それぞれの特徴的なボイス。関西弁、標準語、高い声、低い声、強気の声、慎ましやかな声、おどおどした謝罪、切り口上の言葉、感情を抑制した声・・・。ナラティブだけでなく、ボイスまでが複数となることで、まずこの映画は観客の心を捉える。

対話、闘争、謝罪

多くの場面で、登場人物たちの会話が突然、闘争の場へと変容する。それまで和やかに当たり障りのないやりとりだけだった会話が、突然、相手の領域にずけずけと入り込み、相手を糾弾し、追い詰めるような対話となる。そもそも、ワークショップ後の打ち上げで、あかりが突然、バンとテーブルをたたいて「看護師の仕事が大変なんて、わかったことを言うんじゃない」と声を上げたことから、この物語が始動することになったのではないか。それはやがて、離婚を巡る話から、友人間の信頼の話へと移っていくだろう。誰かが謝罪する場合もあれば、糾弾されている者を擁護し、逆に糾弾者に反論する者もいるだろう。時には、いたたまれなくなってその会話の場から立ち去る者も出てくる。

糾弾する/されることによって、会話の参加者は本心を明かすことを余儀なくされる。それは、時に信頼、友情、愛情を強化することもあれば、お互いが抱いていた距離感を決定的なものにする場合もある。通常、日本社会の会話では、ここまで相手の領域に踏み込んでくる会話は考えられない。その意味で、濱口監督は、日本の映画的時間に新たな会話のスタイルを導入したと言えるだろう。

それは、トレンディなセリフをまことしやかに語るものではもちろんない。あらかじめ定められたテーマや感情を強調するために「劇的」に語られるせりふでもない。まして、教条的な演説やアジテーションではもちろんない。それは突然始まり、誰かがそのゲームに耐えられなくなってその場を後にするまで続く過酷な闘争の場のようだ。

同時に、登場人物の多くは頻繁に謝罪する。どのような会話においてもまず謝罪から始める者もいる。それは一見すると極めて日本的なメンタリティを表しているように見える。しかし、謝罪する者の中には、ゲームのルールを理解し、このゲームに乗ることで何とか相手を理解し、情報を引き出そうとしてあえて謝罪する場合もあることを忘れてはならないだろう。その意味で、謝罪は闘争を生き抜くための一つの手段でもあるのだ。

男と女

「ハッピーアワー」の主題の一つは4組の男女の葛藤にある。独身者のあかり以外の3人の女たちは、映画の最後でそれぞれのパートナーを拒否し、彼らの元を離れることを決意する。事情は様々だが、共通しているのは対話の不在。女たちは、自分のことを理解してもらいたいと願い、それが幻想に過ぎないと分かったときに男たちに見切りをつけ、新たな一歩を踏み出す。

不思議なのは、この結末が、見事にこれ以前の「Passion」や「親密さ」の結末に対する批判となっている点だ。

Passionの主人公は、フィアンセが不在の夜、彼女に想いを寄せる男と一晩、街を歩き続けた上で、彼の想いを受け入れることがないまま自宅に戻り、フィアンセの浮気の告白を聞いて、婚約を解消することを決意する。しかし、彼女から別れの言葉を聞いたフィアンセは、いったんは部屋を後にするけれど、また彼女の元に戻って許しを請うた。その曖昧な結末を断固拒否するように、濱口監督は、登場人物のひとり、桜子にあえて行きずりの男に身を委ねさせた後、朝帰りして夫に別れを告げるという場面を用意する。ここでは、Passionにおける女性の無償の愛が否定され、自分の気持ちを大切にする新たな女性像が提示されている。

「親密さ」の主人公は、芙美同様に、アートに関わる仕事を行っており、パートナーも同様だ。しかし、「親密さ」の主人公が、長い夜をパートナーと共に歩き続け、薄明の瞬間に彼との心のつながりを回復させたのに対し、芙美は長い夜をひとりで歩き続け、自宅で待っていたパートナーに対して別れを告げる。「親密さ」で印象的だった薄明の中、長い橋を渡る男女の姿を捉えた場面とよく似たアングルで捉えられた橋の上を、芙美がただひとり歩き続ける場面が痛ましい。濱口監督自身が、「親密さ」でのあの奇跡的に美しかった場面をあえて解体しようとしているようにも見える。

なぜ、こんなことになってしまったのだろう。理由の一つは、登場人物たちの年齢が20代から30代へと移行したことにあるだろう。おそらく濱口監督の中では、男女の葛藤と和解、共に同じ屋根の下で暮らしている男女がふとしたきっかけで互いの関係を見直すという主題に深くこだわっているように見える。しかし、その主題は、年齢を重ねる中で、関係性の回復から離脱へと変化しているように見える。

妊娠すること

もう一つ、忘れてはならないのは、妊娠という主題が大きく浮上してきたことだろう。これは、それまでの濱口監督の作品では取り上げられなかった主題である。しかし、妊娠という主題は、関係性の強化へと向かわない。いや、むしろ妊娠を通じて男女の関係は決定的な離別を迎える。この映画で提示された2つの妊娠において、それぞれ妊娠した女たちは男の元を逃げ去るだろう。それはなぜなのか。単純に、女性が産む性としての自分を否定したいという話ではない。純は、パートナーの子供をお腹に宿したまま彼のもとを離れることを決意したのだから。妊娠という事態が招き寄せる決定的な離別。これがどういう意味を持つのかは、もしかしたら濱口監督のこれからの作品群の中で展開されていくのかもしれない。

倒れること

「ハッピーアワー」では、4組の男女の誰かひとりが突然倒れる。鉄道のプラットフォームで突然倒れる純、病院の階段から転げ落ちるあかり。桜子の夫は、桜子から別れの言葉を聞いて動揺し、家の階段を転げ落ちる。そして、芙美は、パートナーに別れを告げ、彼を部屋から出した後に、唐突に床に倒れ伏す。この4つの転倒には何の共通性もない。しかし、確かに言えることは、4人とも、何かに追い詰められる中で、そこから身を守るように転倒するということだ。そして、実際、純は転倒後に桜子の家に厄介になって束の間の安息を得、あかりは転倒で負傷したことをきっかけに新たな出会いを経験する。桜子の夫にはそのような安楽の場が用意されていないが、少なくとも彼は自分にとって最も居心地の良い職場に出勤しようとして転倒したことは指摘しておきたい。そして、芙美は、転倒し、部屋の床に横たわることで、結果的に自分ではなくパートナーが部屋から出ることを余儀なくされるという事態を招き寄せる。転倒することによって初めて享受できる束の間の安楽。それは、濱口監督の中でどのような意味を持っているのだろう。

正面から見つめること。切り返し。

映画における人物の会話において、話し合う二人の人間をどのように捉えるかは重要なテーマである。教科書的にいえば、切り返しを行う際にイマジナリー・ラインを超えてはならないというのが常識であり、これを無視した小津安二郎は特異な監督ということになる。もちろん、実際の映画で、そのような単調な切り返しが行われることは稀である。「ハッピィーアワー」のような会話中心の映画ではなおさらである。この映画では、対話の場面における切り返し処理に様々な工夫が凝らされている。グループ・ショット、並んで歩く二人のバストショット、同じ方向を向いた二人を斜めから捉えたショット、あるいはあえて話す人間ではなくその話に耳を傾ける人物に焦点を当てたショット等。。。

しかし、時に濱口監督は、対話する二人の人物を真っ正面から捉えた画面の切り返しを導入する。日常生活では面と向かって話をする際に通常、目にするイメージが、映画の中に導入されると特別な意味を帯びてくる。それは、対話の相手が、全身全霊を賭けて自分との関係構築を図ろうとしている場面に使われていると言っても良いだろう。

例えば、ワークショップの打ち上げの席上で、あかりがワークショップ講師の鵜飼と対話する場面。鵜飼は、明確に真正面からのショットで捉えられている。それは鵜飼があかりに対して発していたメッセージであり、あかりは映画の最後になってそのことに気づくだろう。

あるいは4人の女たちが有馬温泉でくつろぐ場面。互いにこれまでとは違う相手の姿を知ったことに気づいた純は、桜子、あかり、芙美とそれぞれ初対面のような挨拶を交わし始める。そのショットもまた真正面からのショットである。濱口監督における真正面からのショットの切り返し、それは、関係性を更新し、新たな出会いを組織するために必要なショットなのである。

とりあえずのまとめ

これ以外にも、映画的魅力にあふれた細部はいくらでもある。純が神戸の街を離れために搭乗した汽船の汽笛の音が鳴り続ける中、画面は船上で手を振る純から唐突にキッチンのテーブルに頭を寄せかからせている桜子の頭部に切り替わる。しかし、汽笛の音は鳴り続けたままだ。その長い汽笛の音を聞きながら、果たしてこの音は実際の汽笛の音なのだろうか、それとも桜子の白昼夢の中の音なのだろうかと観客は宙づりの状態に置かれる。その感覚は、映画の最後まで持続するだろう。なぜなら、純を見送った桜子の中学生の息子は、家出したままその後も帰宅しないにもかかわらず、桜子は特に心配する様子もなく家を後にし、一晩を外で過ごすことになるからだ。中学生の息子が不在であるのに心配することもなく、会話を続ける桜子と夫を観ていると、もしかしたら、あの汽笛の場面から映画は幻想の世界に入ってしまったのではないかという不安にふと襲われる。

そして、四の主題。監督自身が、この映画はカサヴェテスの「ハズバンズ」に触発されていると語っているが、この映画でも4と言う数字が重要な役割を果たす。4は不安定な数字であり、一人を排除することで安定した3へと移行しようとする。この映画では、この排除される人間は純である。そもそも彼女が、この4人の女友達の出会いを組織した人間である。そして、彼女が失踪することによって、残りの三人は新たな関係を築くことに成功するのだ。

あるいは、電車やバスの車内という濱口監督の特権的な空間について。触れること、抱きかかえること、唇をあわせることなどの身振りの豊かさについて。響き渡る足音が見せる豊かな感情表現について。。。

たぶん、このようにこの映画についてはこれからも様々なことが語られていくのだろう。僕自身、機会があれば、何度でも見直してみたいと感じる。たぶん、この映画を観た後で、改めて「寝ても覚めても」を観れば、印象が変わるのではないだろうか。そして、新作の「ドライブ・マイ・カー」を観た後で、もう一度この作品に立ち返れば新たな発見があるかもしれない。その意味で、この映画はこれからも多くの映画人のインスピレーションの源泉となるだろう。

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