マルティン・ハイデッガー著「ヒューマニズムについて」

ちょっと哲学的になりたくて、買ったままにしておいたハイデッガーの「ヒューマニズムについて」を読む。渡邊二郎訳。難解でものものしい漢字熟語ではなく、フランス語はそのままカタカナ表記して訳をつけたり、主要なタームはすべてひらがなで直訳している。これが漢字熟語より分かりやすい。ハイデッガーは、言葉の原義にこだわりつつ、そこから思考を展開していく人だから、こういう形で訳してもらえると、彼の思考の軌跡が分かるのでありがたい。

僕は、もちろん哲学者でもないし、ましてハイデッガーなんて、高校生の頃に背伸びして「形而上学入門」を読んだ程度。「存在と時間」ももちろん読んでいない。だから、この本について何かを論じることは出来ない。ただ、幾つか感じたことを記しておきたい。

この本は、パリのジャン・ボーフレからの質問に回答する書簡という体裁を取っている。彼の問いは次のようなものである。

  1. どのようにして、「ヒューマニズム」という語に、ある意味を与え返すべきなのか?
  2. 私が、もう長いこと、なそうと努めていることは、存在論と、ある可能な倫理学との関係を、明確にさせることである
  3. 哲学を、単なる冒険的企てに化せしめることなく、しかもそれでいて、どんな探究にも含まれている冒険の要素をどのようにして、救い出すべきなのか。

これだけではわかりにくいかもしれないけれど、僕なりに解釈すると、ボーフレの問いは以下のように言い換えることが出来ると思う。

第一の問いは、ハイデッガーが打ち立てた「存在の哲学」が、理性や認識カテゴリなど従来の形而上学が対象としてきたものではなく、「あること」自体に関する思索であるならば、そこに人間について考える余地はないのではないか?という問いだろう。言い換えると、「存在の哲学」において、「ヒューマニズム」、人間性と言う主題は見過ごされてしまうのではないか、ということだ。

第二の問いは、仮にそうであるとすれば、「存在の哲学」においては、「あること」のみが問われ、「あるべきこと」、すなわち倫理は問題となり得ないのではないか?というものである。言い換えると、従来の倫理学が追究してきた「善」はいかに達成されるべきかという主題が見過ごされてしまうのではないか、という問題提起である。

第3の問いは、上記の2つの問いを踏まえた上で、「存在の哲学」は、いかにして人間の実践と関わるのかという点が問われている。「あること」を問い続けても、そこからは人が「なすべきこと」は何かという問いは生まれてこない。過去の哲学が主題化してきた、歴史や社会に人はどう向き合うのかという主題が見過ごされてしまうのではないか、というのが第3の問いだ。

こうやって整理すると、ボーフレの問いは、ハイデッガーの存在論に対する結構シビアな質問に思える。ハイデッガーが「存在と時間」で主張した、すべてに先立って「存在すること」が問われなければならないという問題提起は、確かに哲学史上、画期的なものだった。しかし、ボーフレは、それによって失われたものをどのように回復させるのか(あるいはうち捨てるのか)を、ヒューマニズム、倫理、実践の3つの点から問いかけた。この問いは、ハイデッガーの存在論に対する本質的な問いかけになっているような気がする。

本書は、この3つの問いに対するハイデッガーの回答を記したものである。もちろん、ハイデッガーは、自らの存在論の正統性を主張すると共に、ボーフレが取り上げた3つの問い、すなわちヒューマニズム、倫理、実践についても、存在論はきちんと取り上げることが出来るという議論を展開する。

ハイデッガーの主張のポイントは、人間の本質の再定義にある。形而上学は、人間の理性のあり方から人間の本質を追究してきた。しかし、存在論から見た場合、人間の本質は「存在へと身を開きーそこへと出で立つあり方」(人間のエク—システンツ)である。人間だけが、「存在へと身を開きーそこへと出で立つあり方」を取ることができる。そこでは、従来の形而上学が扱ってきた人間の現実存在(エクシステンツィア)も、本質(エッセンティア)も問題とされない。

このように問いを転換することで、ハイデッガーは第一の問いに回答する。存在論は、従来の形而上学が扱ってきた形で「ヒューマニズム」を主題化はしないが、それは決して人間不在の哲学ではない。むしろ、人間の本質を、存在のレベルからより深く思考する哲学なのである、と。ハイデッガーは次のように述べる。

人間とは、むしろ、存在そのものによって、存在の真理の中へと「投げ出され」ているのである。しかも、そのように「投げ出され」ているのは、人間が、そのようにして、存在へと身を開きーそこへと出で立ちながら、存在の真理を、損なわれないように守るためになのであり、こうしてその結果、存在の光の中で、存在者が、それがそれである存在者として、現出してくるようになるために、なのである。その存在者が、果たしてまたどのように現出してくるのか、神というものや神々、歴史や自然が、果たしてまたどのように存在の開けた明るみの中へと、入ってき、現存したり、現存しなくなったりするのか、このことを決定するのは、人間ではない。存在者の到来は、存在の運命にもとづくのである。しかし、人間にとっては、次の問いがあくまでも残り続ける。すなわち、果たして人間は、この運命に対応したみずからの本質というしかるべき適切なものを見出すかどうか、と言う問いがそれである。というのも、この運命にふさわしく、人間は、存在へと身を開きーそこへと出で立つ者として、存在の真理を損なわれないように守らなければならないからである。人間は、存在の牧人なのである。

「存在の光の中で、存在者が、それがそれである存在者として、現出する」というビジョンは美しい。存在の開けた明るみに対して身を開き、そこへと出で立ちながら、存在の真理を守る役割を人間に担わせることで、ハイデッガーは新たな人間像を打ち立てたと言えるかもしれない。こうして、ヒューマニズムの問いは解消され、さらにこの同じ人間の本質から、倫理の問題も実践の問題も解消される。存在論は、無神論で非人間的でニヒリズムだと世間の人間は誤解しているかもしれないが、存在の観点から人間を捉え直した方がより豊かな人間像が生まれるのだ、とハイデッガーは主張する。

そして、ハイデッガーは、人間の思索の意味を新たに定義し直す。

存在は、みずからを開き明るくしながら、言葉となってくるのである。存在は、つねに、言葉へと至る途上にある。この来着してくるものを、存在へと身を開きーそこへと出で立つ思索は、今度はその思索みずからの側からして、そのみずからの発語において、言葉へともたらすわけである。言葉は、このようにしてそれ自身が、存在の開けた明るみの中へと引き上げられる。このようにして初めて、言葉は、あの秘密に満ちた、それでいてつねに私たちを隅から隅まで支配する仕方において、存在している。このように充実した姿で本質のうちにもたらされた言葉は、歴史的に存在することによって、存在は、追想的思索の中に保存される。存在へと身を開きーそこへと出で立つあり方は、思索しながら、存在の家に住むのである。こうしたすべてにおいてはしかし、あたかも、思索する発語によっては、まったくなにごとも起こらなかったかのようになっているのである。

存在が、それ自体として言葉となってくる。思索はただ、それをみずからの発語として言葉へともたらすだけであるという特異な思索観。存在論において、人間は、牧人として、存在の真理を言語化する受け身のあり方しか取ることはできない。しかし、その思索は、従来の形而上学とは根本的に異なり、存在の光に包まれたたぐいまれなものである。。。

長々と、ハイデッガーの主張を要約してきたが、率直に言って、僕は彼の議論を辿りながら、不愉快さをつのらせてしまった。一見すると美しい議論だけれど、彼の議論はこれまでの哲学の議論を、「存在」を主語に変えることで言い換えただけにすぎないのではないか。もしかしたら「存在と時間」の中で展開されているのかもしれないけれど、では「存在の光」とは何なのか?存在論を展開するのであれば、そもそもそこから議論を出発させるべきではないのか。その上で、現在のこの世界において繰りひろげられている悪や悲惨を存在論はどのように捉えるのかを説明すべきではないか?一見、哲学的な議論を展開しているようで、ハイデッガーの議論は、「存在」という誰にも到達できない神秘的で安全な彼だけの隠れ家に自分だけ待避して、そこから世界を高踏的に見下ろしているだけではないのか。。。。

たかが哲学書になぜそんなに感情的になるの?と言われるかもしれないが、言うまでもなく僕の怒りの背後には歴史的事実がある。ハイデッガーは、ハイデルブルグ大学学長時代にナチス党員となり、ナチスの暴虐と大量虐殺に加担したのである。この論文が書かれたは1947年。まだ、ヒトラーが引き起こした悲惨な第二次世界大戦の記憶は生々しく、しかも強制収容所における大量殺戮の事実も明らかになっている。その時点で、あたかも何ごともなかったかのように、「存在へと身を開き、そこへと出で立ち、存在の光に包まれて、存在の真理の牧人となる」と繰り返すハイデッガー。しかも、彼が擁護しているのは、ナチスが思想的根拠の一つとした存在の哲学なのである。おそらくハイデッガーの中では、みずからの哲学が影響を与えた人類史上最悪の戦争も大量虐殺も、存在の哲学とは何の関わりもない世俗の事象に過ぎなかったのだろう。しかし、世界の悲惨に全く触れることのない思索が、本当に人間の思索と言えるのだろうか?ここで再び、ボーフレの問いが甦る。ハイデッガーは、ボーフレの問いに何一つ答えてはいないのだ。

なぜ僕が、これだけ頭に来ながらも、ハイデッガーの議論を整理し、長々と引用したのにはもちろん訳がある。僕にとって、この本を読んだことによる最大の収穫は、ハイデッガーの哲学に対する理解が深まったことにあるのでもないし、まして存在の光に近づいたからでもない。彼の議論を読み、深い怒りを体験することを通じて、レヴィナスの哲学に対する理解がより深まったことにある。理解、というよりも共感や実感といった方が良いだろう。レヴィナスは、ユダヤ人だったけれども収容所行きを免れた。しかし、彼の知り合いや親類の何人かは犠牲となっている。そうした経験を経た人間が、ハイデッガーのこの本を読んだときの怒りがどれほどのものだったかは想像に難くない。彼が戦後に展開した膨大な著作は、ハイデッガーの存在論をベースにしつつも、ボーフレが掲げた3つの問い、つまりヒューマニズム、倫理、実践をどのように哲学に組み込んでいくのかを巡って展開していたと言うことが、とてもよく分かった。そう、レヴィナスこそが、ボーフレの問いに誠実に回答した哲学者だったのである。

存在の光が持つ権力性を自覚し、徹底的にこれに抗うことから倫理、実践、責任について思考しようとしたレヴィナスの哲学。たぶん、現代に求められている哲学は、ハイデッガーの高踏趣味でもなければ、サルトルのヤンキーのノリでもなく、レヴィナスの密やかな抵抗の姿勢なんだと思う。

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