リチャード・フライシャー監督「バラバ」

新年早々から重い映画の話になってしまいますが、BSで録画したままになっていたリチャード・フライシャー監督の「バラバ」、とても良い映画でした。
「バラバ」とは、イエス・キリストの代わりに釈放された罪人です。ローマの総督ピラトが、過越際の慣習に従い、暴動や殺人などの罪に問われていたバラバとイエス・キリストのどちらを釈放するかを人々に尋ねたところ、彼らはバラバを釈放することを選びました。このために、イエス・キリストは十字架にかけられることになります。映画は、キリスト処刑後、数十年間に渡って生き続けたバラバの人生をたどります。
釈放されたバラバは、喜び勇んで恋人の元に戻りますが、恋人はキリスト教に改宗しています。彼女は、キリストの死と引き換えに釈放されたバラバを快く思いません。彼女は、バラバにキリストの復活の秘儀を伝え、キリスト教団の存在をバラバに教えます。しかし、バラバはキリスト教の受け入れを拒みます。
その後、バラバは再び罪を犯して捕らえられますが、総督ピラトは「過越祭の慣習により赦免された者は再び死罪となることはない」と言って、バラバに鉱山での強制労働を命じます。罪人が次々と死んでいく過酷な環境の中でも、バラバは生き延びます。偶然の機会により、鉱山からローマに戻り、奴隷戦士となったバラバは、皇帝の面前でローマの戦士を倒して再び自由を手にします。既に、キリストの磔刑から、数十年が経過しており、キリストの死とその後の復活を直接経験した者はほとんどいない中、バラバは以前に出会ったペトロ率いる信者たちに再会します。そして、悲劇がおきます。。。。
バラバを演じているのは、アンソニー・クィーン。例によって、強靭な生命力を誇る無教育で粗暴な野人を演じます。もちろん、バラバのような男にとって、キリストの教えなどは意味を持ちません。バラバにとって、キリスト教徒は、愛を説くだけの無力な存在であり、迫害され、ついには現世の見返りなしに殉死していく愚かな者たちでしかありません。これに対し、バラバは常に現世での利得と自由のために戦う存在です。
しかし、いくら否定しても、バラバはキリストから逃れることができません。キリストの代わりに釈放された男という烙印が常にバラバについて回ります。また、バラバがいかにキリスト教を嘲笑い、否定しても、キリスト教徒との関わりが途絶えることはありません。何よりも、バラバ自身が、一瞬出会っただけのキリストを忘れ去ることができないでいます。
映画は、これを「光と影」の葛藤として印象的に描いていきます。バラバが最初にキリストに出会うのは、釈放されて牢獄から追い立てられた時でした。逆光の強い光の中に浮かび上がるシルエットと一瞬の相貌だけを目にしたバラバにとって、キリストは何よりも「光」の存在です。これに対し、バラバは、牢獄の闇に囚われ、さらに鉱山の地下深くに追い立てられて闇のさらに深奥へと向かう「影」の存在です。
その上、バラバは鉱山での劣悪な環境から目を守るために自ら目隠しをして闇を向かい入れる存在でもあります。光と影の世界は、キリストの死の瞬間の日食にも現れます。キリストが十字架にかけられるとともに太陽は陰り始め、キリストの死の瞬間、世界は闇に包まれます。まさに、光の喪失としてのキリストの死。バラバは、この光景に心を奪われます。
こうした光と闇の世界は、バラバがローマに戻り、奴隷から解放されて自由の身になった後にパウロと再開する場面でも繰り返されます。バラバは、地下の墓場であるカタコンベでキリスト教徒が集会しているという噂を聞いて地下に入るのですが、そこでもまた、闇の中に一人取り残されてカタコンベの中を彷徨います。
バラバとは、闇に落とされ、その中を彷徨うことを強いられながら、それでも光を追い求める存在なのでしょう。私には、バラバのような闇に身を置きつつ、光を希求する人間の方が、より宗教的な者のように感じます。光に包まれ、至福の中で祝福された生を終える人たちの宗教性を否定するつもりは全くありませんが、闇に追いやられつつも、まるで召喚されてでもいるかのように光を希求してしまう心のあり方が、宗教性を高めるのかもしれません。
それにしても、リチャード・フライシャー監督というのは、不思議な人です。SFの名作と言われる「ソイレント・グリーン」でも、被支配者の悲惨な生活とそこから逃れる人々の「幸福幻想に包まれた死」を描きました。「絞殺魔」では、連続殺人犯の捜査を描くことを通じて、人間の心が持つ闇を何重にも描き出しました。商業映画監督として、「トラ・トラ・トラ」や「コナン・パート2」などの数多くの娯楽作を手掛けながら、一貫して人の心の闇と、救済に至ることのない死を描き続けたリチャード・フライシャー監督。とても気になります。