「加藤泉:Like A Rolling Snowball」@原美術館

土曜日の午後の丸々ぽかんと空いてしまったのを利用して、閉幕間近の「加藤泉」展を観にいく。

今回の展覧会は、都内では初となる大規模な回顧展である。東京の原美術館の方は、最近の作品を展示し、Hara Arkでは過去の作品を展示しているとのこと。結構いろいろなところで加藤の作品は目にしているので、今回は最近の展開を確認する良い機会となった。

僕は、それほど加藤泉は好きではない。しかし、気になるアーチストではある。理由は、彼が偏執狂的に繰り返し描きつづけるクリーチャーの形態である。一見してすぐわかるように、これは胎児の姿だろう。デフォルメされ、グロテスクに彩色されたこのクリーチャーが喚起する不安感や居心地の悪さには、何か単なるアーチストのイマジネーションを超えたものを感じるのである。単純に気持ち悪いというのではなく、絵の前に立つと何か自分の中の昏い部分がざわめく感じとでも言えるだろうか。良い気持ちはしないけれど、アートとしては喚起力を持っている。

展覧会場を見て回る。最初に気づくのは、絵を上下二つに分割する水平線の存在である。絵がまさに真ん中で二つに分割されている。単に一つの絵が二つに切断されているというのではなく、二つの異なる絵が接合されている。ただでさえバランスの悪いクリーチャーが、さらに不均衡になっている感じ。また、クリーチャーの下半身が、脚だけでなく、ヒレみたいになっているものも登場している。ますます怖い。

もう一つは素材。かつては基本的に平面画で、時々木彫が入るというスタイルだったのが、今回は、ソフトビニール、布への刺繍、そして石への彩色という形で多様化している。こちらの方は、平面画よりも少しキッチュな感じが強まった印象を受ける。ソフトビニールの安っぽい人工性が、彼のオブジェが喚起する整理的な嫌悪感を緩和しているのかもしれない。でも、一番印象が強いのは、石への彩色。同じクリーチャーなのに、石に彩色した作品は、キミ悪さが薄れて、むしろ懐かしい感じがする。これは一体どういうことだろう。。。

うまく言語化できないけれど、加藤の描くクリーチャーは、誰もが指摘するように胎児の姿に似ている。胎児とは何か。それは「未生」の存在である。胎児は胎児である限り、常に流産の危険を孕んでおり、そのために生きていながら「死」に限りなく近い存在である。生と死の境界領域にあるものは恐ろしい。なぜなら、これを目にすることは、人に絶えず死のことを自覚させるからである。そもそも、人間の生は、たとえどれほど活力に溢れていても死に近接している。生とは、死に向かう過程であり、不死がありえない以上、生は常に死を内包してるのだ。胎児の前に立つとき、人はこのことを自覚させられる。だから、加藤泉の作品を目にするとき、人はある種の根源的な居心地の悪さを感じるのだろう。

では、なぜその姿が石の彩色となった時に、懐かしいものに変わるのだろうか。一つは、石という素材が持つ無生物性によると思われる。石という素材を使うことで、加藤のクリーチャーが内包する生と死の両義性が無効化され、無機的な存在に変容する。石は、もちろん生物ではないので死なない。そのような素材を使った作品は、もちろん死の恐怖などを喚起しない。

でも、それは、石を素材にした作品が、生理的嫌悪感を緩和したものになったことは説明できても、「懐かしさ」を生み出すことの理由にはならない。床の上に無造作に置かれた石のクリーチャーがもたらす「懐かしさ」はどこから生まれるのだろう?

そんなことを考えながら、部屋の隅や廊下の端に置かれた石の作品を見ていて、ふと気づいた。加藤の石造りの作品は、日本の田舎でよく見かける道祖神やお地蔵様の雰囲気を醸し出しているのだ。あるいは、中沢新一が「精霊の王」で取り上げた石の神「シャグジ」によく似ていると言っても良いかもしれない。加藤の石造作品シリーズに感じる「懐かしさ」は、多分、私が日本人として田舎を歩きながら慣れ親しんできた神々から感じた「懐かしさ」に通底していたのである。

道祖神やシャグジは、基本的に共同体と共同体の境界領域に設置される。共同体の外側にある異界に設置されることで、道祖神は、異界に潜む魔を鎮め、共同体を離れて移動する旅人の安寧を保証し、あるいは外部から侵入しようとする疫病などの悪を撃退する。仏教的に翻案されたお地蔵様も、同様である。お地蔵様が救済するのは、まさに未生の存在として、陽の目を見ることなく生と死の境界領域を永遠にさまよう水子の霊である。道祖神もお地蔵様も、その穏やかで微笑ましい姿と裏腹に、共同体の安寧を確保する大切な役割を果たしているのだ。

まさか、加藤泉の展覧会で、こんなことを考えつくとは予想もしなかったけれど、とりあえず、加藤の作品が石という新たな素材を使うことによって、新しい領域を切り拓いたとは言えそうである。その奥に、人類が長い時間をかけて築いてきた未生の魔との関わりの記憶が横たわっているとしたら、それはとても刺激的なことではないだろうか。少し、加藤の次の展開が気になってきたような気がする。

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