アルフレッド・ヒッチコック監督「バルカン超特急」

BS録画したヒッチコック監督の「バルカン超特急」を観る。彼が渡米前の英国時代に監督した最後から2番目の作品。イギリス時代のヒッチコックの作品はなかなか観る機会がないので、こういう作品を放映してくれるBSはありがたい。

物語は、とあるヨーロッパの架空の国から西に向けて出発したバルカン超特急の車内でのミステリーを軸に展開する。アメリカ人女性のアイリスは、宿で老婦人フロイと親しくなり、彼女と同じコンパートメントに入る。二人は、食堂車でお茶を共にし、ディナーの予約も行う。しかし、食堂車から戻ってアイリスが寝入っている間にフロイは失踪する。不思議なことに、コンパートメントにいた他の同乗者たちは、そんな老婦人は見なかったと口を揃える。乗員に聞いても、そんな乗客はいなかったと言い、乗り合わせた医師は、彼女が頭を打った後遺症で一時的な記憶障害を起こしているのだと診断する。不審に思ったアイリスは、同じくホテルで知り合った民族音楽研究者のギルバートと共に、真相解明に乗り出す。。。。

ヒッチコック映画術」で、ヒッチコックが自ら語っているように、この映画の展開には、様々な無理がある。ミステリーを展開させるために、常識的に考えたらそんなことやらない!と突っ込みたくなるようなトリックが色々なところに張り巡らされている。でも、映画を観ている間はそんなことは思いつきもせず、ただただ映画の世界に没入し、アイリスと共に謎解きに奔走することになる。これを支えるのが、ヒッチコックの華麗な演出術。本当に息をつかさずに物語が進行していく。絶品の職人芸。

何よりも、彼の映画の中では、全てが躍動している。これは、サイレント映画を経験し、映画におけるアクションの意味を体感的に理解している監督でないと絶対にできない演出。セリフやナレーションに頼らず、アクションと映像だけで物語を進めていくから中だるみせず、観客はただただストーリー展開に身を委ねることができる。これが本当の映画体験だと思う。

実は、この映画、予算が限られていたので、スタジオに1台の列車をセットで作り、ほぼその中だけで撮影されている。他の場面は少なく、ロケ撮影もほとんどない。しかし、使われる空間は限定されているけれど、閉塞感はまったくない。むしろ、その制約を逆手にとって豊かな空間を作り出していく演出が本当に心憎い。

例えば、窓。失踪したフロイのことを誰にも信じてもらえず、思い余ってギルバートに相談するアイリス。食堂車で彼に事情を説明しているアイリスは、列車がトンネルに入った瞬間、窓にフロイが書き残した名前のスペルが闇から浮かび上がっていることに気づく。それをアルバートに見せようとしたとするが、気付いたら列車はトンネルから抜け、彼女の名前も消えている。。。

この後、アルバートは、フロイが本当に失踪したことにも気づくのだが、これも窓。食堂車のウェイターが、ゴミを列車の窓から外に投げ捨てる。その中の紙切れが、一枚、偶然窓に貼りつく。それは、フロイがウェイターに頼んで入れさせたハーブティーの袋だった。それを見て、アルバートはアイリスの言っていたことが本当だったことに気づくのである。。。

限られたセットと窓の外のスクリーン・プロセスだけで、こんなに豊かな演出が可能なのである。「ヒッチコック映画術」で、フランソワ・トリュフォー監督が興奮しながら魅力を語っていたバルカン超特急は、やはり素晴らしい作品でした。その後、ヒッチコックは米国に渡り、潤沢な予算をフルに活用して、グレース・ケリー、イングリッド・バーグマン、ジェームズ・ステュアート、ケーリー・グラントなどの有名俳優を起用し、世界中にロケした傑作を次々と発表していきます。その豪華さは、もちろん魅力的ではあるのですが、「バルカン超特急」のように、低予算でも様々な工夫を凝らして映画的魅力に満ちたイギリス時代の作品も捨てがたいなということを改めて実感しました。

余談ですが、他のほとんどのヒッチコック作品同様、この作品でも、謎が解決された後、アイリスはアルバートと結ばれます。山田宏一さんが、どこかで書いておられましたが、ヒッチコック映画において、列車は犯罪の空間であり、車は恋愛の空間なのです。そして、犯罪解決のプロセスは、同時に独身女性が意中の男性を仕留めるプロセスでもあります。ヒッチコック映画では、女性が意中の男性を手に入れるためには、共に車に乗ることが不可欠です。今回も、アイリスはフィアンセを捨ててアルバートを選びます。決め手は、やはり車。そんなささやかなジンクスの楽しみも、ヒッチコック映画の魅力の一つだと言えるでしょう。

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