スタンリー・ドーネン監督「シャレード」

スタンリー・ドーネン監督「シャレード」を見る。オードリ・ヘップバーンとケーリー・グラント主演。ウォルター・マッソー、ジェームズ・コバーン、ジョージ・ケネディ共演。音楽はヘンリー・マンシーニ。ヘプバーンの衣装はジバンシーが提供。今から考えると、とても贅沢な作品。

またまた昔話で恐縮だけど、僕がこの映画を初めて見たのは、多分、1970年代前半のテレビ放映。まだ小学生低学年だったと思う。ジョージ・ケネディが義手でヘプバーンに襲い掛かるシーンや、その後、ビルの屋上でケーリー・グラントと格闘するシーンは鮮明に覚えている。それから、電話ボックスで、ジェームズ・コバーンがマッチに火を擦っては繰り返しヘプバーンのドレスに落とす場面も。その後は、完全に記憶が飛んでいるから、もしかしたら、僕は、途中で飽きて寝てしまったか、あるいは親に無理やり寝床に入れられたかして、最後まで見ていなかったのかもしれない。

ただ、なぜか最後の大使館の場面は記憶に残っている。多分、大学になって名画座でスタンリー・ドーネン監督作品上映特集でまとめた見たときの記憶だろう。正確に覚えていないけど、大井武蔵野館あたりで、「雨に唄えば」「パリの恋人」「シャレード」の三本立てを見たんだと思う。

こういう記憶をたどるのは楽しい。大袈裟だけど、自分の映画史的な立ち位置が見えてくるような気がする。淀川長治さんのような神話的なものにはもちろん比較すらできないささやかなものだけど、多分、僕にとっての「大人の映画」との出会いはこの辺り。もちろん、映画館で「ゴジラ」シリーズや「太陽の王子ホルスの大冒険」のようなアニメは見ていたし、テレビでも「小鹿物語」とか「シェーン」などは見ていた。でも、ボロボロにカットされて短くなっていたとはいえ、「シャレード」のような作品をテレビで見ることは、当時の僕にとって、とても背伸びして大人の世界を覗き見たようなワクワク感があったと思う。

そして、それが「シャレード」であったことにも感謝したい。当時の僕にはヒッチコックの価値など理解できるはずもないけれど、年老いたとはいえ、あくまでもプロとしてミステリアスな影をたたえつつ冗談を飛ばして女性を誘惑するケーリー・グラントのプロフェッショナルな演技に子供の頃に触れていたことは、きっと僕のその後の映画体験に影響を及ぼしているだろう。まだ30代前半であるにもかかわらず、すでにキャリアの終盤に差し掛かっていたヘプバーンのキュートで天真爛漫な姿。例によって、30歳近く年上の男性に恋をしてしまうという無理のある設定でも、難なく説得力のある恋物語に仕立て上げてしまう演技力。ジェームズ・コバーンもジョージ・ケネディも、きっちりと悪役をこなしている。彼らの演技やスタンリー・ドーネン監督の手堅い演出は、僕の中である種の規範を形成しているはずである。30年代の黄金時代に映画館に通った世代の規範に比べれば可愛いものかもしれないけど、それでもこの価値観は、僕の中にしっかり根付いていて、その後、人生の少なからぬ時間を映画を見ることに費やしてきた僕に一定の判断基準を与えているはずだ。

もちろん、僕らの世代にとって、映画とは何よりもまず、70年代にスタジオ・システムが崩壊した後、特撮技術を売りにB級映画を娯楽作品として売り出した「スター・ウォーズ」シリーズや「ジョーズ」シリーズであり、あるいはポセイドン・アドベンチャーやタワーリングインフェルノなどのパニック映画だった。それはそれで良いところもあるけれど、やっぱり少し寂しいものがある。それを埋め合わせてくれるのが「シャレード」のような良質な職人監督による作品群だった。スター・ウォーズに30年以上付き合いながら、いくつかの例外的瞬間を除いて「やってられない」と感じる僕の感性の底には、多分、シャレードのような作品の記憶があるはずだ。それはありがたいことだと思う。

それにしても、映画はいつも新しい発見がある。「シャレード」も、今回見直してみて、ヘプバーンのアップの際の絶妙なカット割りやちょっとした視線の動きなど、本当によくできてるなと改めて感心した。今から見れば、セットも限られているし使い回しが多くて、それほどお金をかけていないことがわかるけれど、それを陰影の飛んだ照明やカメラワークで飽きさせずに見せる。音楽も良い。何か衰退しつつある流れに身を委ねつつ、それでもクオリティは絶対に落とさないぞと言う気概が俳優からもスタッフからも感じられる。昔の映画をこう言う形で見るのもなかなか悪くない経験だと思う。

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