古井由吉著「白暗淵」

古井由吉さんへの追悼文をこのブログに書いてから、あっという間に2ヶ月近くが経ってしまった。あの頃は、まだ新型コロナウィルスについての危機感が日本ではまだ広まっておらず、海の向こうの人ごとのような空気があった。そんな中で、僕はかなり自覚的に外出や会合を控え、できる限りオンラインで会合を行うようにしていた。いくつかの会合に参加した人が感染して入院したという話を聞いているので、やはりこの判断は正しかったと思う。

そして、人の生と死の境の脆さをつくづく痛感する。10年、20年先のことを色々と考えて計画をしてみたところで、疫病が広まればすべての前提が脆くも崩れ去ってしまう。生は死を内包しており、性は死に近しい。そんなことをぼんやり考えながら、久しぶりに書店に入る機会があったので、未読だった古井由吉の文庫を購入した。とはいえ、それですぐに読み始めるかというと、新型コロナウィルスで緊急事態宣言が出されていても何やかやと仕事があり、バタバタと過ごしているうちにまたいつの間にか日が経ってしまった。僕のような無精な人間は、通勤電車の行き帰りが唯一の読書時間なので、外出しなくなるといきなり読書量が減ってしまう。困ったものである。

とまれ、毎日のニュースで、新型コロナウィルスの感染者数や死者数が報道され、同世代の一人暮らし男性が、新型コロナウィルス感染の陽性反応が出て自宅待機していたところ、容態が急変して自宅で死んでいたというニュースに接すると、にわかに今、自分が生きている時間が愛おしくなり、こんな風に明日もわからぬ身なのに仕事に追われている自分が馬鹿らしくなって、今日は1日、古井由吉を読み耽ろうと決心した。読み終えたのが本書である。

本書のタイトルは「しろわだ」と読むらしい。試みに辞書を開いてみるけれども、もちろんそんな言葉はない。表題作の短編を読み進めると、「黒暗淵(やみわだ)」という言葉から連想された言葉のようだ。「黒暗淵」という言葉は、主人公の男がまだ高校生の頃、英語を担当する女教師の課外授業に参加し、そこで旧約聖書の英文を学ぶところで出てくる。創世記の「神の霊が水の面を覆っていた」状態を指す言葉とのこと。この女教師が創世記の、「光は暗黒に照る、而して暗黒は光を悟らざりき」という言葉を暗唱した後に、不思議な言葉を語る。

それから少女のような面立ちになり、この闇を信者の人たちは悪と取るようだけれど、わたしは、この光景を見たようが気がするの、光がひとすじ、くっきり射しているのに、闇は少しも白まずに、いよいよ深い闇なの、ともどかしそうに話しかけるその相手が坪谷一人になった。目と目がまともに合っていた。そっと逸らした時に、坪谷は自分の目もとに、何事かを暴かれかけた者の、悪びれた翳の走ったのを感じた。

(中略)闇もなければ光も射さず、ただ白かった。いよいよ白くなっていくようだった。その中をしかしただ1匹の羽虫が、わずかな風にもあおられ、ゆっくりゆっくり、いまにも消えそうに、細い枝の先へ向かって昇っていくのを見ていた。そしてその虫の動きをそらおそろしい間違いのように、千里も離れたにもひとしい枝先を目指して飛ぶ虫の間違いのようでもあり、それを刻々追っている人間の間違いのようでもあり、そんな徒労を許す天地の間違いもあるように感じた。

主人公である坪谷は、第二次世界大戦中、疎開先の実家で爆撃に遭い、爆風で一命を取り留めたけれど、母親を亡くした人間である。爆風で飛ばされて意識を失った際に、唯一、記憶に残っている羽虫の映像が、高校生になって聞いた言葉と反響しあい、さらに様々な記憶や言葉を手繰りよせて一つの世界を作っていく。文庫でわずか20ページ程度の短編であるにもかかわらず、物語は錯綜し、イメージと言葉が反響しあい、照明し合って小宇宙を形成していく。世界の生成をめぐる哲学的な対話の後に、下世話な学生の就職活動の愚痴めいたやりとりが入り、さらに社会人になった男が不意に付き合っていた女から「あなたの子供を生みます」と宣告される。そうした物語の合間に、繰り返し、爆撃の記憶、母親の記憶、疎開中の親族の記憶が挿入される。「白暗淵」とは結局何だったのか、はっきりとした言葉は与えられないけれど、何か、キリスト教的二元論、光と闇の対立の世界ではない、曖昧模糊とした中で何者かが生成し、何かを希求しつつもそれが明確な像を結ばない独特の世界観が提示される。これが古井由吉さんの作品。堪能する。

この短編集は、古井さんが70代を越えてから書き継がれたものらしい。連作短編集だけど、人つながりのストーリーがあるというわけではなく、かと言って、全く別々の物語が紡がれているわけでもない。全体を貫くのは、第二次世界大戦の記憶だけれども、歴史を大上段に振りかざして断罪するというのでは全くなく、空襲の火災に巻き込まれて逃げ惑った記憶や、敗戦後の混乱での空腹の記憶、家を失った女の狂気、亡くなった知人たちの記憶などが断片的に挿入される。70代を超えた古井さんの日常に、まるで現在のように第二次世界大戦の記憶が出現し、死者達が語りかける。その中で、作家と思しき登場人物たちは、病にかかったかと思うと、見知らぬ女性と行き合って肌を重ね、あるいは知人の葬儀に出席しようとして道に迷う。怪異や霊魂、生き霊が現れたかと思うと、不意に天変地異が襲う。とはいえ、語り口はあくまでも穏やかでてらいがない。

読んでいても、何か大きな主題が立ち現れてくるというのではなく、ただただ生と死、此岸と彼岸、過去と現在、個と集団の境が曖昧化していくのみである。読み進めるにつれて、迷路に迷い込んだような錯覚に陥る。実際、登場人物たちは、頻繁に途方に暮れ、あるいは自失して茫然と立ち尽くす。こうした物語を読み継いでいくことで、自分の中の何かが外部に流れ出し、あるいは今まですぐそばにいたのに気づかなかった何かが自分の中に浸透してくる。それは不安でありながら、どこか安心感のある懐かしいあわいの世界である。

たぶん、こういう形でいくら言葉を書き連ねていっても、古井さんの作品世界の魅力など伝わらないだろう。こんな世界を、僕のような人間が言語化することなど到底できっこない。とりあえず、作家自身の後書きを紹介しておきたい。自身の作品世界を語りながら、虚構というものの本質に迫った鋭い思考だと思う。

自分がたどたどしくも書き綴っていることは所詮虚構であり、あるいは虚妄であるかも知れず、そのことは片時も忘れてはならないが、虚構とはつまるところ何なのか、と作品を進める間に訝って筆の止まることがあった。虚構とは招魂のための、姑息ながらの、呪術みたいなものではないか、とある時唐突として考えた。招魂と言っても、その招くべき魂のことは、知れぬことにしている。魂と言うからには不死でなくてはならず、その不死というところで思案は足止めをくらう。紛れ失せた記憶を招こうとする、と言うほどのことを考えたまでである。

(中略)虚構とは始めが恣意であり、考えきれずに迷い出るようなものであり、やがて途方に暮れて茫然としたところで、紛れ失せた記憶を外から、見も知らずの人の、垣間見せた姿として、招き寄せるのではないかと考えた。それぞれに年を経て、それぞれの所で暮らしていても、探す記憶の、面影らしいものがまつわりついている。

ならば、招き寄せるほうとしてもいささか、上の空のほうがよいか。・・・

死者の魂を招く呪術としての執筆行為。それは、計算されたものというよりも、むしろ書き手自身の境界が曖昧化し、いずこかにある魂と共鳴することで立ち現れる幽玄の世界のようである。こんな世界が、日本語で書き継がれてきたことに、改めて驚かされる。そして、新型コロナウィルスの感染が拡大する中で、この本に出会ったことに、何か予兆のようなものまで感じてしまう。今日はそんな不思議な1日を過ごしたのだった。

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