ジョン・フォード監督「三人の名付け親」
心に屈託が残っているなと感じたので、気分転換にジョン・フォード監督の「三人の名付け親」を見ることにする。1948年の作品。ジョン・ウェイン主演。ジョン・フォード監督が独立プロダクションで映画を撮り始めてから2年目、3作目となる。同じ年に「アパッチ砦」を撮り、翌年に「黄色いリボン」を撮っているから、ジョン・フォード監督にとっては最も脂の乗った時期の作品の一つと言っても良いだろう。実際、映画を見ていると、インディペンデント系の実験映画を見ているような錯覚に襲われる。
物語は、三人のならず者の銀行襲撃から始まる。わずかなお金を手に逃亡する三人。しかし、保安官の追撃を受けて、最も若いキッドは負傷し、さらに頼みの綱の水袋をなくした状態でアリゾナ州の砂漠に逃げ込むことを余儀なくされる。
ここからが、この映画のすごいところである。三人は、保安官の裏をかいて砂漠を水なしで横断する。凄まじい砂嵐、灼熱の太陽。傷ついたキッドにわずかに残った水を与えつつ移動していく三人の姿が痛ましい。さらに馬さえ失い、ボロボロになりながら砂漠を横断していく。砂漠を吹き抜ける風、照りつける太陽・・・自然の脅威がこれでもかと画面上に描き出される。ジョン・フォード監督は、まるで砂漠のイメージに取り憑かれているように見える。
やがて、彼らは井戸にたどり着くが、井戸はダイナマイトで破壊されており、そばに打ち捨てられた幌馬車には、保安官の姪が出産間際で瀕死の状態にいる。三人組は、彼女から生まれたばかりの赤ん坊を託され、名付け親となる。名前は、三人の名前をとって、「ロバート・ウィリアム・ペドロ・ハイタワー」。三人組は、彼女との約束を果たすために、生まれたばかりの赤ん坊と、サボテンから絞り出したわずかばかりの水、そして赤ん坊用の4日分のコンデンス・ミルクを携えて、砂漠を越え、ニュー・エルサレムという街を目指す。それを追う保安官。保安官は、自分の姪が三人組に殺されて子供が誘拐されたと勘違いし、復讐の念に燃えて三人の後を追う。そして・・・。
クリスマス映画として撮影されたというこの映画には、キリスト教の色彩が色濃く出ている。そもそも、三人の名付け親は、キリスト生誕の際に祝福のために訪れた東方の三賢人を思い起こさせる。それだけではない。三人組が、赤ん坊をどうしようかと相談して途方に暮れた時、荷物に残された聖書がたまたま開いていた一節に「ニュー・エルサレムに向かえ」という言葉が記されていたのである。かくして、ならず者の三人組は、聖書に導かれるように赤ん坊を連れた旅に出る。
しかし、もちろん、砂漠の環境は過酷である。徒歩で、水無しで砂漠を渡っていくのはほとんど自殺行為と言っても良い。傷ついたキッドは途中で倒れ、さらに赤ん坊の出産を手伝った陽気なメキシコ人のピートも倒れる。最後に残されたボブ(=ジョン・ウェイン)は、疲労困憊し、渇きに苦しめられて、朦朧とした意識の中で歩き続ける。しかし、さすがのボブももう一歩も歩けない状態になり、もはやこれまでと倒れ込んだ時、再び聖書のページが目に入る。そこには、「ロバとともにニュー・エルサレムへとたどり着く」という一節が記されていた。こんな砂漠でロバを盗めというのか、と自嘲するボブの前に、まるで奇跡のように持ち主のいないロバが現れる。そのロバに縋り付くようにして、ボブは何とかニュー・エルサレムにたどり着くことになる。
こうして物語を辿っていくだけで、この映画がキリスト教の信仰に根ざした作品であることがわかってもらえると思う。実際、ならず者の三人組は、その犯罪行為とは裏腹に、敬虔で信仰深く、赤ん坊を救うために自己犠牲を厭わない良き人たちである。しかし、それ以上に感動的なのは、水なしで砂漠を彷徨う姿である。それは、まるでキリストが40日間の間、神と対話するために荒野をさまよった姿を彷彿とさせるようだ。ジョン・フォード監督の宗教性がよく現れた作品だと思う。この作品は、1919年の「恵の光」のリメイクであり、ジョン・フォード監督がこの物語を深く気に入っていたことがわかる。
とはいえ、この作品も、もちろん、ジョン・フォード監督の西部劇である。信仰だけの物語に終わるはずはない。他のフォード映画と同様に、ここには小さな街の人々の連帯があり、陽気な騒動と信仰心あふれる女たちの合唱があり、ジョン・ウェインと保安官が牢獄の鉄柵を挟んでチェスをするというユーモラスな場面もきちんと挿入されている。何よりも、巨体を持て余すようにしながら赤ん坊を抱くジョン・ウェインの姿が本当に愛おしい。いつものように、敬虔さ、神聖さと世俗の賑わい、西部の荒っぽいながらも裏表ない人情がないまぜとなった豊かな世界がそこにある。見終わったら、抱え込んでいた屈託がどこかに消えてしまったことさえ気づかない、ハッピーな映画でした。おすすめです。