ルネ・クレマン監督「太陽がいっぱい」

ルネ・クレマン監督「太陽がいっぱい」を見る。1960年の作品。原作はパトリシア・ハイスミス。リプリー・シリーズ第一作の映画化である。出演は、アラン・ドロン、モーリス・ロネ、マリー・ラフォーレ他。アラン・ドロンの出世作であり、ニーノ・ロータの甘いメロディーと共に世界的に大ヒットした。

物語は、わざわざ説明するまでもないでしょう。アメリカの大富豪の息子フィリップ(=モーリス・ロネ)は、婚約者のマルジュ(=マリー・ラフォーレ)と共にイタリアに滞在している。フィリップの父親から、彼をアメリカに連れ戻すことを依頼された貧しく孤独な青年トム・リプリー(=アラン・ドロン)は、フィリップの使い走りのような形で二人と行動を共にしている。そんな中、リプリーはある計画を思いつく。。。

冒頭のローマの場面が印象的である。マルジュを家に残してローマに遊びに来ているフィリップとリプリーは、自由奔放に夜のローマを歩き回る。盲目の男に高い金を払って杖を買い取ったり、たまたま知り合った中年女性と一緒にローマ中を馬車で乗り回し、彼女にキスしまくったりと、無軌道な青春を謳歌している。その演出は、過激でエネルギッシュである。カメラも素晴らしい。特に、屋外の場面。リプリーが市場をうろつく姿をドキュメンタリーのスタイルで撮影した場面は、市場の喧噪や猥雑さにあふれているし、例えば、屋台の籠の中の魚がさりげなく挿入されたりして、臨場感がある。リプリーが、フィリップのサインを真似するために一室にこもってサインを黙々と写し、これを映写機で壁に映してできばえを確認する有名な場面も、映写機の光がアラン・ドロンの身体に映えて印象的である。警察が部屋に近づいてくるの気づいて屋根伝いに逃走する場面も、巧みに壁を伝う身のこなしに躍動感がある。

こうやって、一つ一つの場面を見ていくと名作の条件がそろっているように見える。何よりもアラン・ドロンの美貌は圧倒的である。どんな表情をしても、決して崩れない。どこか人間を超えた感じがする。実際、この映画は世界中で大ヒットし、アラン・ドロンを一躍国際的なスターにした作品である。でも、今回、改めて見直してみて、どうも映画の世界に入り込めない自分に気づいた。綿密に構成されたミステリー、リプリーという鬱屈を内に抱えつつそれを少しも見せない人物造形、ドキュメンタリータッチを活かしたカメラ・ワーク、と素晴らしい部分がたくさんあるのにこの違和感は何だろう。

アラン・ドロンの演技が単調だというのはもちろんある。フィリップの傲慢さも鼻につく。マルジュが、フィリップのような男と付き合っているもあまり説得力がないし、その後、リプリーに心惹かれるようになるのも唐突な感じがする。結局、原作の緻密なストーリー展開をきちんと絵にはしたけれど、その人物造形や動機付けに失敗したと言うことなんだろうか。でも、動機付けや心理などの説明を全く欠いていても映画として魅力的な作品は山のようにある。たぶん、それだけの理由ではないはずだ。僕の映画的な直感が「何かが足りない」、「何かが決定的に間違っている」と告げているのだけど、それが何かが分からなくてとてももどかしい。

ルネ・クレマン監督の作品は、子供の頃に「禁じられた遊び」を見たぐらいでほとんど知らない。他の作品を見れば、もしかしたらこの違和感は少し解消されるのかも知れない。なんだかすっきりしない映画鑑賞でした。

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