ケン・アナキン監督「バルジ大作戦」
ケン・アナキン監督「バルジ大作戦」を見る。1966年公開のアメリカ映画。ヘンリー・フォンダ、ロバート・ライアン、テリー・サバラス、ロバート・ショウなどの懐かしい俳優が出演している。ポスターのとおり、「70ミリ・ウルトラ・パナビジョン総天然色」で有名スターが出演した戦争大作。この売り出し方も60年代ならでは。
舞台は、第二次世界大戦末期のドイツ西部戦線。ノルマンディー上陸作成が成功し、パリ解放、アントワープ解放と勢いに乗る連合軍。将兵たちは、クリスマスまでにドイツは降伏し、故国に戻れるだろうと考えていた。そんな中、カイリー中佐(=ヘンリー・フォンダ)だけは、ドイツ軍の巻き返しがあるとにらんで独自の偵察を行っていた。ある日、カイリー中佐は、ドイツ軍のヘスラー大佐(=ロバート・ショウ)が西部戦線に招集されたことを知る。実は、ヘスラー大佐は、大規模な戦車隊で大攻勢をかけ、アントワープを制圧しようという「ラインの守り」作戦を指揮するためにやってきたのだった。カイリー中佐は、グレイ少将(=ロバート・ライアン)に侵攻を警告するが幹部たちは取り合わない。そんな中、ヘスラー大佐は進撃を開始する。不意を突かれて撤退する連合軍。しかし、ウォレンスキー少佐(=チャールズ・ブロンソン)は、グレイ少将の命を受けて、戦車部隊への抵抗を試みる。。。。
あまり何も考えずに、BSシネマで録画してそのままになっていたのをたまたま見始めたのだけど、面白くて最後まで見てしまった。冒頭、カイリー中佐が飛行機で敵陣を偵察している中、ヘスラー大佐が乗るジープに遭遇する。どういう将校が乗っているかの確認のため、飛行機は高度を下げてヘスラー大佐の顔写真を設営しようとする。何度も接近する飛行機と、銃撃されるかと恐れて逃げ惑う運転手。この両者の構図がピタリと決まるところが気持ちよい。また、この短い冒頭の場面で、対照的な二人のキャラクターが的確に描き出される。うまい。
この後は、戦争映画にお決まりの展開である。戦場は、多様な社会的背景を持った人間が一カ所で生死を共にする場所だから、ドラマが生まれる。例えば、カイラー中佐。彼は、出征前は刑事だった。このため、彼がいくら情報収集し、敵襲の可能性を進言してもグレイ少将は取り合わない。彼らエリート将校にとって、刑事出身の「素人」などの意見は妄想以外の何物でもないからだ。あるいは、ヘスラー大佐。生粋のドイツ軍人として、ナチスの親衛隊のことを内心苦々しく感じているが、職業軍人として忠実に任務を果たす。彼は、ポーランド電撃戦など、戦車部隊を率いて数々の功績を挙げてきたが、同時に兵力の損耗率の高さでも群を抜いていた。勝利を得るためには、兵の生死など関係ないという冷徹な男である。今回も、無謀な計画にあきれながらも、功績を挙げるために進んで作戦に参加する。
これ以外にも様々な人間ドラマがある。戦争などそっちのけで、戦車を物資の輸送に使って一儲けしているガフィー軍曹(=テリー・サバラス)。しかし、彼は商売仲間のルイーズの死を知って、決死の思いで戦場に出て行く。そして、どんな状況でも冷静に対処し、兵士たちを鼓舞して戦いを挑むウォレンスキー少佐。彼は捕虜となるが、他の捕虜たちの命を守るためにヘスラー大佐に直談判を申し入れるほど肝の据わった男である。戦場という極限状況の中で浮き彫りになる人間ドラマが、この映画でもしっかりと展開される。
そして戦車。何十台もの戦車が進軍し、最後は平野部で、敵味方入り乱れての戦車戦となる。これは迫力があった。お互いの射程を計り合い、回避と追跡を同時に行いながら相手を無力化していく戦法がリアルタイムで描写されていて、これだけでも見る価値がある。特撮などではなく、実際に戦車を走らせての撮影である。こういう贅沢さが60年代には許されていたのかとうならされる。
ちなみに、このバルジの戦いは、第二次世界大戦末期の現実の戦闘である。ウィキペディアで調べると、「ヒトラー最後の賭け」となったこの戦闘は、ヒトラーが想定した以上にアイゼンハワーの決断が早く、連合軍が速やかに攻勢に転じた上に、後方攪乱隊が機能しなかったり、補給を現地調達に頼る無理な作戦だったためもあり結局失敗。アントワープの攻略はかなわず、ドイツ軍は大規模な損害を出して撤退を余儀なくされ、結果的にドイツの降伏を早めたということのようだ。
さらにウィキペディアで調べると、バルジ大作戦に投入されたドイツ軍の新兵器テイーガーⅡ戦車は、映画ではアメリカ軍のM47パットン戦車が代用されており、戦車好きからは批判されているとのこと。ティーガーⅡ戦車は、映画撮影当時ほとんど残っておらず、映画で大量に使用するためには、他の戦車で代用せざるを得なかったらしい。さらに、映画の中で、重要なエピソードとなる「マルメディの虐殺」も、映画ではドイツ軍の意図的な捕虜虐殺として描かれているが、実際は偶発的なものだったとされている。
いやはや、インターネットの時代は映画にまでファクト・チェックが入るのですね。歴史的事実を検証することは重要だけど、映画は所詮虚構。やり過ぎると、表現を制約してしまいかねない。映画作りも大変な時代になったものである、と妙なところで納得してしまいました。そうそう、監督のケン・アナキンは、ジョージ・ルーカスと親しく、「アナキン・スカイウォーカー」の名前は、この監督に由来するとのこと。これもウィキペディアねた。便利な時代になったものだ。