鶴岡真弓編「芸術人類学講義」
人はなぜ芸術を必要とするのだろうか。自分自身を振り返っても、とにかく僕はアートが好きだ。視覚芸術だけとっても、現代アートも、いわゆる西洋美術も東洋美術も大好きである。遡って、たとえばネイティブ・アメリカンやアボリジニーのロックアートやサンド・アートにも惹かれるし、さらにいえば、各地の先住民が残し、あるいは現在も生み出し続けている仮面、入れ墨、陶器、装身具・・・・なども機会があれば見るようにしているし、日本人だから当然のように楽焼きにも縄文土器にも工芸にも惹かれる。要するに、人間が何かを表現することに魅了されるのである。
もちろん、視覚芸術だけではない。身体芸術も、コンテンポラリーダンスから、演劇、舞踏、古典芸能、さらには民俗芸能まで見たいと思う。音楽もクラシック、オペラ、現代音楽から沖縄民謡、古楽、ポップまでほとんど雑食のように聞く。落語も浪曲も大好きである。これに、映画、ビデオ・アート、アニメが加わる。我ながら、その節操のなさにあきれてしまう。こんなものを追いかける暇があったら、もう少し真面目に仕事をし、少しは金儲けのこととか生活のこととか考えなければと思うけれど、こればかりは生まれつきのものだから仕方がない。
でも、時々、ふと考える。僕はこういう人間の表現に触れながら何を求めているのだろうか。古来、人は同じ問いを立ててきた。この質問への一つの回答は、人間は、その本性として「真、善、美」を求めるというプラトン的な回答である。理想としての美を求める心が、人を表現へと駆り立て、表現できないものはプロの作品を見ることでこの代償行為とするという説明。なんとなく、説得力があるような気がするけれど、そもそも「美」って何?といわれると困ってしまう。例えば、土方巽の暗黒舞踏は美しいか?と聞かれると、決して古典的な意味での美しさはそこにはない。でも、僕はやはり惹かれてしまう。なぜだろう?
例えば、近代的な芸術概念に従えば、そこには強烈な個性を持った「作者」がオリジナルな「作品」を生み出すという強固な図式が存在する。この場合、僕は、作品を鑑賞することを通じて、こうした作者の精神世界と対話しているという暫定的な説明は可能である。例えば、ゴッホの絵を見るとき、僕らはその強烈な色彩表現を透かすようにしてゴッホという悲劇のアーチストの内面を見いだし、その精神世界の特異さに惹かれるというのはなんとなく実感値として理解できる。その作品が、構築しようという精神性や理念に共感するということもありうるだろう。それが別にプロである必要はない。フォーク・アートやナイーブ・アートでも、波長が合えば素晴らしい作品はあるし、好き嫌いはあるけれどもアール・ブリュの作品にも惹かれるものはある。それぞれの作品を通じて透かし見える作者の精神世界や、もしかしたら魂の片鱗に触れることを僕は求めているのかも知れない。
では、こうした「作家」がいない「作品」の場合はどうだろうか。この場合も、署名付きの近代的作家は存在しないにせよ、誰かがその作品を作っているわけだから、その署名なしの作家の深い信仰心や創作への真摯な姿勢に惹かれているという説明はできるかも知れない。例えば、名もない仏師が彫り上げた観音像に強烈なインスピレーションを感じることもある。また、韓国の民画の強力なパワーに心を打たれることもある。そのとき、僕は、その作品を前にして、その名前のない作り手の精神に触れ、さらにその作品が生み出された時代の美的感覚や、これが培われてきた長い技術の継承の歴史などにも触れているのだろう。
ということは、アートに触れるということは、その作品を通じて、作者と対話し、その作品が生み出された美意識や意匠や様式に共鳴し、さらにこうしたものを生み出す民族なり人種なりの集合的精神に触れていることになるだろう。その感覚の深度や広がりは様々だけど、アートに触れるという行為は、人間という種がある種の内面的必然から生み出す表現行為やその結果として作品との対話を通じて、類としての人間を理解しようという行為なのかも知れない。
こうした発想を、僕はユングから学び、そして中沢新一のいくつかのエッセイから学んだ。中沢新一が2006年に刊行した「芸術人類学」は、人間の芸術活動を、何万年前の洞窟壁画の誕生から説きおこし、人間が持つ超越性への志向から分析しようとした意欲的な作品だった。なぜ、人間は芸術制作を行うのか、それを表現の始原ともいうべき洞窟壁画から時空を超えてすべての芸術に適用する枠組みを作ろうという構想にはとてもわくわくさせられた。もしもそんな壮大な構想が具体化すれば、視覚芸術、聴覚芸術、身体芸術から、味覚、嗅覚、触覚や思念にまたがる人間の創造行為を俯瞰できる学問が可能になるのである。そこからどのような新しい世界が垣間見えるのだろうか。
しかし、残念ながら、中沢さんはその後、芸術人類学を発展させることなく終わってしまった。そもそも、芸術人類学という本自体も、最初のマニフェストだけで、残りは今まで中沢さんが取り上げてきた神話学や対称性思考や歴史学のエッセイを寄せ集めた感じで、芸術人類学という構想を掘り下げようとしたものではなかった。やはり、こういう大風呂敷はなかなか学問の対象にならないのかな。。。という読後の失望感が残ったのを覚えている。
なんだかとても長い前置きになってしまったけど、もう芸術人類学なんて言葉を忘れかけていた今頃になって、なんとケルト研究者の鶴岡真弓さん編で「芸術人類学講義」という新書が刊行されたのである。そう、多摩大学芸術人類学研究所は、5年後の2011年に鶴岡真弓さんが二代目所長に就任し、これまでコツコツと研究を続けてこられたのである。
しかも、鶴岡さんは、もしかしたら中沢さん以上に、芸術人類学という発想が持つ射程を理解しておらルのかも知れない。とりあえず、筑摩書房の紹介サイト「この本の内容」から引用しておこう。
「ライオン・マン」―今からおよそ四万年前、世界最古の動物彫刻が現生人類の手によって創られた。材料はマンモスの象牙。二十世紀後半、ドイツ・シュターデル洞窟で発見された、ヒトとライオンを合体させた現実にはありえないハイブリッド・フィギュアはラスコー壁画より古い。人類はなぜ、「芸術」を欲するのか。人類は「神とともに生きる」ことを選んだ時より、「創造する種」としての歩みを始めた。多摩美術大学「芸術人類学研究所」が新しい学問の眺望を、本書において問いかける。
そう、人類は、「神と共に生きる=超越性を自覚した」時点から、人類となり、創造を始めたのである。芸術と人類は、その意味で不即不離の関係にある。人類学の一領域として芸術を扱うのではなく、「芸術人類(Man of Art)」についての学際領域としての「芸術人類学」。これは、もしかしたらすごい試みかも知れません。しかも、執筆が、美術評論家の椹木野衣、詩人の平出隆、そして哲学・思想・民俗学などで独自の思考を重ねる安藤礼二という豪華メンバー。もちろん、鶴岡さんも「ホモ・オルナートゥス:飾る人」というテーマで、アールデコから民俗装飾を横断する論考を掲載していて読ませます。
新書だし、まだ共通の枠組みまでには至らず、それぞれの執筆者が自分の問題関心とフィールドワークの成果をまとめている感じが強いですが、とはいえ、中沢さんが立ち上げようとした「芸術人類学」がこのような形で継続されてきたことを歓迎したいと思います。今の出版事情を考えるととても大変なことだとは思うけれど、どこか大手の出版社が叢書か講座のような形でもっと大々的にシリーズ化できないだろうか。行動心理学とか大脳生理学とかメディア論とかAI論などの最先端の知見も取り入れるととっても面白い世界が開かれるような気がするのですが。。。