リチャード・ブルックス監督「弾丸を噛め」

リチャード・ブルックス監督「弾丸を噛め」を見る。これでこの映画を見るのは何度目だろう。最初は、ただキャンディス・バーゲンの美しさに見とれている間に映画が終わってしまった。彼女が荒野で悪漢に襲われる場面で、ジーン・ハックマンたちの援護を得て銃を取り戻し、相手を撃ち殺す場面。様々な映画で引用されている有名なシーンだけど、やはり美しい。1975年に公開された当時、これはウーマン・リブのシンボルになっていたような気がする。それほど印象的だった。

その後も見るたびに、この映画の印象は違った。時には、ジーン・ハックマンとジェームズ・コバーンの友情の物語であり、時には、ジャン=マイケル・ヴィンセント演ずるカーポという若造(彼は粋がっているが、ガンファイトの経験もなければカウボーイの経験もない)がジーン・ハックマンたちの教えを受けて改心し成長する物語だった。その時の僕自身の成熟度に応じて、この映画はどんどん表情を変えていく。映画の細部から結末まで熟知していても、やはり何か発見があるのではないかと思って見てしまう。不思議な映画である。

物語は、今更説明するまでもないだろう。舞台は1906年のアメリカ西部。新聞社主催で2000ドルの賞金を掛けた西部横断レースが開催される。距離は700マイル。ジーン・ハックマン、ジェームズ・コバーン、キャンディス・バーゲンたちがレースに参加するために集結する。その中には、英国紳士もいれば、歯痛を患っているメキシコ人もいる。年老いたミスターという男も参加している。ジーン・ハックマン演ずるクレイトンは、かつてジェームズ・コバーン演ずるマシューズと共に米西戦争を戦った間柄でもある。果たして、このレースに勝って賞金を得るのは誰か?キャンディス・バーゲン演ずるケイトは女性の身でありながらなぜこんな過酷なレースに参加したのか。。。。

今回、改めて見て気づいたこと。この映画は、西部劇では珍しく、馬が死ぬことを主題にする映画である。冒頭、ジーン・ハックマンがレースに参加する馬を連れて集合場所に向かっている。その途中で、彼は死んだ馬とその子馬に遭遇する。ジーン・ハックマンは、その子馬を見捨てておくことができず、子馬を近くの牧場に届けてやる。このため、彼は集合場所で待っていた列車に乗り遅れ、レース馬をさらに100キロ走らせたという理由で解雇されてしまう。

さらに、馬たちは次々と死んでいく。近道を抜けようとして荒野を駆け抜けた際に馬が転倒・骨折してしまい泣く泣く射殺を余儀なくされる男がいる。カーポは、勝利を焦って馬に無理をさせてしまい、砂漠の真ん中で馬を死なせてしまう。これを見て激怒したクレイトンは、カーポを馬で追い立てて鞭打ち、死んだ馬を埋葬することを命ずる。

そう、「弾丸を噛め」には濃厚に死の香りが漂っている。その死は、通常の西部劇における死とは異なり、決闘による死ではなく、過酷なレースに耐えられずに脱落していく無意味とも言える馬たちの死である。しかし、リチャード・ブルックス監督は、そのようなアンチクライマックスの死にこだわる。それは、「暴力教室」や「カラマーゾフの兄弟」、「熱いトタン屋根の猫」「冷血」など、社会から外れた者たちを描いてきた監督の、西部劇に対する彼なりのメッセージなのかも知れない。

映画の中盤、ひとつだけ人間の死が描かれる。ミスターとだけ呼ばれ、誰も名前を知らない初老の男である。彼は、老齢を押してレースに参加し、腰痛やしびれに悩まされながら、なんとかレースを続ける。しかし、ミスターは腕がしびれてきて筏を綱で引くことができず、馬に乗ったまま川に入って流されてしまう。なんとか対岸にたどり着いたものの、心臓の持病が悪化してもはや手遅れとなる。荒野の暗闇の中、焚き火の側にミスターを運んでやるクレイトン。他のメンバーは、レースのために先に出発してしまったが、クレイトンは心配してミスターの側に残る。「なぜこんな馬鹿げたレースに参加したんだ」となじるクレイトンに対して、ミスターは答える。「俺は、今まで様々な職業を経験してきた。カウボーイ、バーテン、炭鉱夫・・・。生きるためには何でもやったが、結局、何者にもなれなかった。でも、このレースに勝てば、おれは勝者になれる。今まで何者になれなかった俺が、初めて人から認められるんだ。」こうつぶやきながら、男は息を引き取る。

この場面、今までさらっと流してきたけど、今回は少し身につまされた。多分、僕もこんなことを考える年齢に達したということなんだろう。あるいは、そのような年齢に達したことを警告するために、何者かがこのタイミングで僕に「弾丸を噛め」を見るよう促したのかも知れない。長い間生きていると、時々、そのような啓示を感ずる瞬間がある。たかが映画、されど映画である。

さて、僕はこの次、いつこの映画を見ることになるのだろうか。そして、その時、どのような感想を抱くのだろうか。映画のオープニングを飾るある種の祝祭感覚に心を惹かれるかも知れない。もしかしたら、このような馬鹿げたレースに熱狂しつつ勝利することがある種の強迫観念となっているアメリカ文化を改めて批判的に考察し始めるかも知れない。あるいは、ジーン・ハックマンという、ジョン・ウェインのような天真爛漫な演技が受け入れられなくなった時代の映画俳優として、巨体を持て余しながら、馬の状態を案じ、ロバを殴る男を許さず、レースに参加するすべての人間のことを心配し、そして米西戦争で失った伴侶のことを胸に秘めて人生を耐えている無骨でピュアな男の生き方に改めて共感するのかもしれない。

たぶん、ある種の映画は、人生の節目節目で、僕という人間を召喚するのだろう。それは、僕のコントロールを超えてしまっている何かであり、僕はただ、その時を待ちながら長い人生を耐え続けるしかないのである。

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