ジョン・フランケンハイマー監督「フレンチ・コネクション2」
ジョン・フランケンハイマー監督「フレンチ・コネクション2」をみる。言うまでもなく、「フレンチ・コネクション」の続編。1975年の作品。ポパイ警部(=ジーン・ハックマン)、麻薬王シャルニエ(=フェルナンド・レイ)の配役は変わらない。
1作目で取り逃がしたシャルニエを追って、ポパイ警部がマルセイユに飛ぶ。しかし、現地の警察は協力的ではなく、フランス語ができないポパイ警部は、現地での捜査も思うに任せない。そもそも、ポパイ警部がマルセイユに送られてきたのは、シャルニエをおびき出すおとりにするためだった。ポパイがやってきたことを知ったシャルニエは、ポパイを拉致し、麻薬漬けにして情報を聞き出そうとする。。。。
1作目がヒットすれば、2作目で柳の下のドジョウを狙うのは映画界では常識である。普通、2作目は低予算のはずだけど、この作品に関して言えば、前作よりも予算が掛けられているように見える。前作は、舞台はニューヨークだけだったし、ほとんど路上のドキュメンタリータッチだったから経費は抑えられていたはずである。しかし、この作品は、マルセイユ・ロケを敢行し、モブ・シーンも充実している。シャルニエのアジトに火をつけて全焼させる場面もあれば、麻薬工場が爆発する場面もある。さらに、クライマックスでは、船の修理ドックでの銃撃戦があり、そこに大量の水が流れ込むというスペクタクル・シーンも用意されている。2作目は、1作目よりどう考えても制作費が掛けられているように見える。
こんな恵まれた条件の下、ジョン・フランケンハイマー監督は、忠実に前作の手法を踏襲する。ドキュメンタリー・タッチの画面。群衆の中、敵を追うポパイ警部。必然性なく挿入される死体の画像。そして、例によってただ黙々と息を切らして敵を追って走り続けるポパイ警部。。。明らかに、フランケンハイマー監督は、ウィリアム・フリードキン監督が作り出した「フレンチ・コネクション」の世界観を踏襲しつつ、そこに新しいものを加えようとする。
それは、例えば、麻薬漬けにされた後に釈放されたポパイ警部が、麻薬の禁断症状と闘う長いシークエンスであり、それを助けるマルセイユ市警察本部のバルテルミー警部との友情だろう。これによって、ポパイ警部の人間像がより浮かび上がる。気を紛らわそうと、そもそも野球なんて言うスポーツについての基本的な知識すらないバルテルミー警部にアメリカ野球の話を延々とするポパイ警部は悲壮だけどどこかおかしい。悪いシーンではない。
でも、やはり、そこには決定的に何かが欠けている。ジョン・フランケンハイマー監督には、ウィリアム・フリードキン監督が切り開いた世界を何とか模倣することができたけれど、それを超えることはできなかった。それがなぜかは、僕には明確に言語化できないけれど、そこには確かに決定的な断絶がある。
僕は2作目を否定するつもりは全くない。むしろ、2作目は1作目とは根本的に異なる作品のはずなのだ。それは、人類が、フィクションという語りを持った時から始まったと言っても良いだろう。良い例が、セルバンテスの「ドン・キホーテ」である。1作目が、放浪の騎士ドン・キホーテの物語であったとすれば、2作目は、その物語の主人公であるドン・キホーテを巡るメタ・フィクションだった。だからこそ、「ドン・キホーテ」は世界文学史に残る傑作なのであり、だからこそ、「テリー・ギリアムのドン・キホーテ」は、あらゆるドン・キホーテ映画を超えた真の傑作となっているのである。マルクスの「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」という言葉は、ここでも真理を語っている。
ぱっと思いつくだけでも、ジェームス・キャメロンの「エイリアン2」は1作目のタイトルを複数形にしただけであるにもかかわらず、1作目の密室で展開されるフロイド的サイコドラマの閉塞感を打ち破って、広大な空間における開放的なアクションと強烈な母性原理に満ちたドラマへと転換させた。
あるいは、映画史に残る傑作で言えば、セルジオ・レオーネの「夕陽のガンマン」シリーズは、もちろん、1作目も素晴らしいけれど、1作目の世界観を踏襲しながら、南北戦争を背景に善悪の領域を超えた男たちの葛藤を描いた「続・夕陽のガンマン」が大傑作であることに誰も異論はないだろう。そこには、歴史があり、悲劇と喜劇が共存し、男たちのドラマがあり、要するにすべてがあった。
続編は、同じ監督であろうが違う監督であろうが、1作目のオリジナルな世界観を踏襲しつつ、これを虚構性の強度によって乗り越えることで、ある種決定的な傑作を生み出してしまえる貴重な機会なのである。残念ながら、ジョン・フランケンハイマー監督は、これを活用することができなかった。やはり映画の神は残酷である。