ロブ・ライナー監督「恋人たちの予感」

いきなり強引な世代論で恐縮ですが、僕たちの世代の映画の女神は、もしかしたらメグ・ライアンかも知れない。「恋人たちの予感」(1989)、「めぐり逢えたら」(1993)、「フレンチ・キス」(1995)、「ユー・ガット・メール」(1998)、そして「ニューヨークの恋人」(2001)と彼女の代表作を並べてみると、ある意味、彼女は僕たちの時代の恋愛の理想像を体現していたような気がする。

その僕たちというのが、日本人なのか、アメリカ人なのか、それともごく少数の僕のような軟弱な男性なのかはとりあえず置いておく。メグ・ライアンが美人かどうかもとりあえず考えないことにしよう(個人的には、美人と言うよりもキュートと言った方が良いような気がするけれど、多分、人によって意見は違うと思う。)。

メグ・ライアンの魅力は何かというと、何よりもそのコメディエンヌとしての才能だろう。たとえば、「恋人たちの予感」で、なぜか老人ばかりが座っているフード・コートで食事をしながら、サリー(=メグ・ライアン)とハリー(=ビリー・クリスタル)がセックスについて話をしている。ハリーは、自分は女性を満足させている自信があると言うと、サリーはそんなこと分からないじゃないと反論する。自分には絶対に分かると断言するハリーに対し、サリーは女はオルガズムに達する振りをした経験が少なくとも一回はあるのよと言いながら、いきなり食堂で「実演」を始めてしまう。だんだんとうわずっていくサリーの声に思わず振り返る老人客たち。気まずそうに周りの客を見ながら苦笑するハリー。サリーは、いくところまで「いってしまう」と、何事もなかったかのようにサンドイッチの続きを食べ始める。この「歴史的」なシーンのおかしさは、メグ・ライアンでなければ絶対不可能である。

キュートでコケティッシュだけど、根は真面目で、ポジティブ思考。同性の友達(=懐かしのキャリー・フィッシャー!)もしっかりいるし、仕事もしっかりこなすけど、なぜか男運が悪い。何度振られても、めげずにまた恋愛に乗り出す。日本的に言うと、少し「天然」が入っているかも知れないけれど、決して憎めない存在。その微妙な均衡があるからこそ、この場面は、エロチックにもならず、下品にもならず、かといって羽目を外したり常軌を逸したりということもなく、ただ肯定的な驚きと笑いを周囲に波及させる。これがメグ・ライアン。

彼女が作り出した女性像は、たぶん90年代を象徴しているのかも知れない。自分の仕事を持っているけれどキャリア志向ではなく、結構もてるけれどいやみなところはないし同性の友達もいる。人生をエンジョイしているようで意外と結婚願望が強く、それなりに年齢のことを気にしていて30代を終えるまでには落ち着きたいと考えている。上昇志向があるわけではなく、むしろ友達のように気軽に話し合えて安心できる関係を望んでいる。。。

「恋人たちの予感」が公開された時の惹句が「友達以上、恋人未満」だったのも納得できる。メグ・ライアンは、たぶんそういう男女関係を体現する存在だったから、僕たちの世代の女神になったのだろう。彼女は、女性たちが肩肘を張らなくても自分たちのキャリアを追求することができるような時代の空気を反映しており、そして家父長的な父親の役割から解放されて新しい男女関係を模索していた軟弱な男性たちの欲望を体現する存在でもあった。

ロブ・ライナー監督の演出も素晴らしい。この映画は、大学を卒業してすぐのサリーがハリーと初めて出会う場面から、5年後の再会(二人はそれぞれ別々の異性と結婚する)、再び5年後の再会(二人とも離婚している)、そして・・・という形で、10数年の二人の付き合いを描いている。時代が変わる節目ごとに、映画とは全く無関係な老夫婦へのインタビューが挿入される。そして最後に、サリーとハリーの二人に対するリアル・タイムのインタビューで幕を閉じる。最初に見た時はあまり意識していなかったけれど、こうやって時代の推移にアクセントを入れるという手法、結構よくできているかも知れない。やはり才人だと思う。

その後、メグ・ライアンは、ローレンス・カスダン、ダイアン・キートン、テイラー・ハックフォード、ジェームズ・マンゴールド、ジェーン・カンピオンなどの監督作品に主演している。いずれも、大作主義、商業主義へと傾斜していくアメリカ映画界で、良心的な作品をとり続けた監督や女性監督たちである。やはりメグ・ライアンは、映画に愛された女優なんだと思う。

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