古井由吉著「聖耳」
古井由吉著「聖耳」を読む。2000年の作品。作者は、これを執筆した当時、右眼の網膜円孔の手術のため、入退院を繰り返していたとのこと。本作は、この時の経験をベースにした連作短編集。
といっても、いつものように、病院でうつ伏せになって寝ている状態(眼の手術後に、眼球の内部に注入された気体の圧力を眼球の奥の網膜に正しくかけるため、10日あまり患者はこの姿勢を強いられるとのこと)から、夢うつつの状態へ、過去の空襲の記憶へ、古い友人との思い出へ、と物語はどんどんとずれていき、過去と現在と未来が入り乱れ、病院の空間が街へと広がるかと思うと、昔住んでいた住居の階段の踊り場へと唐突に接続して死者たちが踊り狂い、ふと気がつくと横に女が座っており、その女が何十年も前に拝んだ秘仏の姿に二重写しになり・・・と多層化し、複層化していく。古井由吉の世界としか言いようのない虚構世界が展開する。仮に、この文章を古井由吉という作家やこれが文学作品であるという前提知識なしに読んだら、何か時空のバランスに失調を来した精神の持ち主によるモノローグではないかと疑ってしまうかも知れない、そんな不思議なテキストである。
特に印象に残った作品。「日や月や」は、主人公とおぼしき男性が自宅近くの踏切で蹲っている老女を助ける場面から始まる。老女は、特に大事にも至らず、しばらく休んでいると元に戻って男に礼を言う。そして、男に四方山に昔話をする。かつて、彼女がまだ若い頃、娘をこの踏切で亡くしたというのだ。娘は、一人で出かけて踏切を渡っている時、下駄の歯を線路の溝にはさませてしまい、列車に轢かれて死んだとのこと。その話を聞いた男は、なぜか戦時中、防空頭巾をかぶっていたために列車の音が聞こえず、この踏切で亡くなった娘のことを思い出す。老女は唐突に「あの夜、あなたはどこにいましたか」と男に尋ねる。その言葉に導かれるように、誰の記憶かも定かでない戦時中の一人の女の記憶が語られ始める。女は踏切で娘を亡くし、夫と二人きりの生活だが、夫の留守中に空襲に遭って業火の中を逃げ惑い、家も焼けてしまう。呆然として家の防空壕の中に蹲っていると夫が戻ってくる。夫は都内で勤務していたが自宅の周辺が空襲に遭ったと聞いて夜を徹して歩いて戻ってきたのだ。二人の会話が流れていく中で、いつの間にか時代は、10年、20年と過ぎていき、語っている主体も消滅してしまった後に、再び女は踏切の前に蹲っている。。。
文庫版でわずか20ページの短編なのに、なぜこんなことが可能なのか分からないままに物語の中に引きずり込まれ、気がついたら自己と他者の境界が曖昧化した状態でいきなり現実世界に放り出される感じ。まるで深い霧の中を彷徨しているような濃密な読書体験である。
連作短編集でありながら、一つ一つの作品の独立性は高く、といいつつやはり連作としての一体性が保たれている。平安時代の説話、民俗伝承、落語、シェークスピアなどの古今東西の文学作品が引用・解体され、視覚も聴覚も日常の均衡を喪失し、時制も空間認識も曖昧化する。
本当にすごいけれど、あまり立て続けに読むものではないという気がしてきた。そういえば、この本を読み終えるのに前後して、ぎっくり腰に近い激しい腰痛と、これはジョギングの反動による足底腱膜炎の再発が起きた。かくも古井文学は恐ろしい。。。