大森立嗣監督「タロウのバカ」
大森立嗣監督というのは不思議な人である。「日々是好日」のように端正な映画を撮ることもできるし、「まほろ駅前」シリーズのようなユーモアあふれる活劇を撮ることもできる。「セトウツミ」のように、何も事件は起きず、基本的に二人の高校生が話しているだけなのに、見事に映画にしてしまうと言う希有の才能の持ち主でもある。どんな主題を扱っても映画になってしまう。これは素晴らしい才能だけれども、監督という人種は、もしかしたらそれを解体したくなる時があるのではないだろうか。
例えば、三池崇史監督は、その圧倒的なストーリーテリングのうまさで世界中のファンを魅了していたにもかかわらず、ある時からストーリーを積極的に解体するようになった。あるいは北野武監督。彼も素晴らしいストーリー・テラーであるにもかかわらず、「監督・ばんざい!」や「みんな〜やってるか!」のように、自身をパロディ化し、脱力させるような映画を意識的に作っている。才能のある監督であればあるほど、何を撮っても映画になってしまうという事態にいらだちを感じるのかも知れない。
「タロウのバカ」も、もしかしたら三池崇史監督や北野武監督と同じように、物語ってしまうことを解体したいという大森監督の願いがこもった映画なのかも知れない。
実際、この映画は、知的障害者施設の問題から、援助交際、育児放棄、半グレ、カルト宗教、社会的孤立などの現代日本が抱える問題を取り上げているけれど、そこに描かれているのは、思春期の子供たちが抱え込んだ圧倒的ないらだち、やり場のない怒り、何か言語化したり表現したりする以前の過剰なエネルギーである。だから、この映画には、言葉にならない叫びとほとんど様式性を欠いた過剰な暴力、あるいは前後の脈絡を欠いた衝動的な行動に満ちあふれている。「セトウツミ」のように、練りに練った台詞と演出などはまったくない。主人公のタロウとエージ、スギオの3人が突発的に駆けだし、何の意味もないザリガニ釣りに興じ、秘密基地でじゃれ合い、そして半グレのグループに衝動的な暴力を振るう。そこに、脳性麻痺の少年と少女のカップルが、あまり何の必然性もなく登場して歌い、踊り、タロウと対話する。時に彼ら「忘れられた子供たち」以外の人間が登場するけれど、彼らはただ子供たちの突発的な暴力や悪ふざけのターゲットにされるだけだ。こうなると、ほとんど実験映画のような趣である。
とはいえ、この映画はエネルギーに満ちている。こういう形でしか表現できない何かがそこにはある。理不尽な暴力と愛のないセックスと親の愛情を得られない子供たち・・・そういう今の日本社会の、誰もがその存在に気づいていてやりきれない思いを抱えているにもかかわらずなかったことにしてやり過ごそうとしているものたち。それを何か理念や倫理に基づいて断罪するのではなく、そうしたものに直面した時に抱え込んでしまう情動をそのまま映画の中に刻みつけたような、そんな力を持った映画である。だから、河原で謎の宗教集団が何か儀式を行い、そこにタロウ達3人が現れるという意味不明の場面すらもが、この映画の欠かせない部分であるかのような感じられる。ウェルメイドな映画では決してないけれど、画面と語りの強度によって最後まで魅了されてしまう不思議な映画である。
もちろん、この映画にも、大森立嗣的主題は満ちあふれている。大森立嗣の映画において、主人公達の多くは、孤児である。親の愛情を知らずに育った者たち。家族は崩壊しているのだが、なぜか主人公は兄の存在を支えに生きている。しかし、兄は弟の期待に応えることはなく、弟は兄にすら裏切られてただ呆然と途方に暮れるだけである。だから彼らは、ぎこちなく男達の連帯を築いてそこにつかの間の平安を得ようとする。時に女性が入ろうとすることもあるけれど、結局、その試みは徒労に終わる。そもそも、大森立嗣的世界では、男女は正常な愛情関係を築くことができない。男女は、ただセックスをするだけの関係。それは多くの場合、合意のない、一方的な関係でしかない。このような荒廃した人間関係の中で物語は救いのないまま、結局、仲間も死んで主人公はただ一人取り残される。
「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」のラスト、あるいは「光」のラストは、「タロウのバカ」のラストに明らかに反響している。これに、「まほろ駅前」シリーズの象徴的な死を加えても良い。大森立嗣は、何か同じ物語を執拗に反復しているように見える。それが、彼の個人的な体験やトラウマによるものなのかは分からないけれど(ちなみに、彼の父親は彼の作品にもよく出演する大駱駝艦の麿赤兒である)、「タロウのバカ」からあふれ出る焦燥感と解体への意思は、現代日本社会に向けられているだけでなく、監督自身にも向けられているのかも知れない。