ビー・ガン監督「凱里ブルース」
ビー・ガン監督「凱里ブルース」を観る。「ロングデイズ・ジャーニー この世の涯てへ」が衝撃だったビー・ガン監督の初長編作品。2016年製作。ロカルノ国際映画祭新進監督賞&特別賞、ナント三大陸映画祭黄金の熱気球賞他を受賞。世界中の映画監督から絶賛を浴びた。ポン・ジュノ監督の次の言葉が、その衝撃のすべてを代弁している。
フィルムノワールの亡霊、
ウォン・カーウァイの不機嫌なブルーズ、
「めまい」とタルコフスキーの時間の洞窟、
ホオ・シャオシェンの長い出会い、
アピチャッポンの神秘的な夢想。
それらの光源は、ビーの映画館の鏡の間でリフレクションする。
ビー・ガンはこの先20年間の映画界を牽引する監督の一人である。
ポン・ジュノ(映画監督)
まさに圧倒的な映像世界。1989年生まれだから、まだ30代前半であるにもかかわらず、その革新性、完成度の高さ、ポエジーの深さは普通ではない。本当に映画の神が降臨したような才能だと思う。
物語は、いつものように時空の揺らぎの中で往還していく。中国、貴州省の凱里市。荒れ果てた廃墟のようなビルの診療所(タルコフスキー的空間)で、高齢の女医とともに暮らすチェンが主人公である。彼は、世話になったボスの一人息子が殺された仇を代わりに討って服役。9年間の刑期を終えた時には、既に妻は亡くなっており、さらにかわいがっていた甥もどこかに連れ去られてしまった。チェンは、甥を連れ戻し、また女医のかつての恋人に思い出の品を届ける旅に出る。しかし、たどり着いたのは、過去の記憶と現実が交錯する夢の世界のような不思議な街だった。。。
ビー・ガン監督の作品では、記憶と時が重要なテーマとなる。甥にあげた時計、甥が壁に描く時計、チェン自身も手首に時計の絵を描く、時は巻き戻すことができるのか。もし巻き戻すことができるのであれば、現在と過去にどのような違いがあるのか。。。列車の窓にふと映し出される時計の針は逆向きに回っているようにも見える。映画は、現在と過去、そして時を超えた夢の世界を自由に巡っていく。
一つ一つの映像が素晴らしい。例えば、室内の壁に映し出される列車の映像。まるで窓の外を列車が走りすぎていくような不思議な空間が生まれる。この時空がいつのことかは分からないけれど、二度目に登場する場面では、チェンが旅から帰還する列車に直接に接続してしまう。かつて見た風景は、現在を先取りしていたのだろうか。それとも、列車に乗っているチェンの現在はただの夢なのだろうか。。。
そして、ビー・ガン監督特有の長回し。それまで断片的に過去、現在、夢の世界が往還していた時空が、長回しにより、いきなり長い現在に固定される。この断絶がまず印象的である。映画は、このようにカットをつなぐことでも、カットを入れないことでも、時間を操作することができる唯一の表現形態であることに新鮮な驚きを感じる。とはいえ、その長回しは、アンゲロプロス的な持続の強度ではなく、ソクーロフの「エルミタージュ幻想」やヒッチコックの「ハリーの災難」のように一つのショットの中で多様な人々が行き交い、カメラは縦横に時空間横断していくという、速度と軽さを持ったものである。ワンショットの中で食事をし、服のボタンを付け替え、船に乗って川を渡り、その間に散髪を終え、さらにカラオケまで歌ってしまうなんていう芸当ができてしまうなんて、一体どんな演出なのだろう。。。
記憶を辿りながら愛しい人を追い求める旅に出る。頼りになるのは手紙や写真。バイク、列車、車、トンネル。火と水。滝。廃墟。ビリヤード場。犬・・・。ビー・ガンの映像には、タルコフスキーがそうしたように、彼の愛するイコンのようなガジェットのような映像がちりばめられ、さらに印象的な詩が被さることで、イメージが増幅していく。すごい。
いつまでもこの世界に浸っていたいと思うと同時に、さらに新しい世界を切り開いていってほしいとも感じる。初長編作の「凱里ブルース」で彼の映像世界の基本的なスタイルは確立された。2作目の長編となった「ロングディズジャーニー」では、それがさらに洗練されると共に、色の主題が大きく展開された。では、この次はどうなるのだろう?新作が待ち遠しい監督がまた一人登場したようだ。