ピーター・ウォード他著「生物はなぜ誕生したのか:生命の起源と進化の最新科学」
「生物はなぜ誕生したのか:生命の起源と進化の最新科学」読了。僕は、骨の髄まで文系だけど、定期的に生物学や物理学、宇宙科学の本を読む。内容をきちんと理解しているとは到底言いがたいけれど、読んでいて面白いし飽きない。この宇宙はどのように誕生したのか、生物はどのように誕生したのか、生命とは何か、知性はどこに宿るのか等々、かつて神学や哲学の対象領域だった分野が、最先端の科学によっていろいろなことが明らかになるのを知るのは刺激的である。
その中でも、生命の誕生と進化を巡る議論は大好きなトピックの一つ。この分野では、草思社の「生命40億年全史」が定番だけど、さすがに90年代半ばの情報に基づいて書かれた本なのでやや時代遅れになりつつある。そういう意味では、原著の刊行が2015年の本書は最新の情報に裏打ちされていて読み応えがある。
生命の起源に関する定説は、これまで変遷を繰り返してきた。僕が中学生の頃に学んだのは、「生命は、硫化水素、メタン、アンモニアなどが溶け込んだ海に雷などの放電がなされた結果、誕生した」というものだった。実際、当時の地球環境を再現した場所で放電した結果、アミノ酸が誕生したというエピソードが教えられていた。しかし、話はそれほど単純ではない。アミノ酸はできても、生命の基礎であり自己複製と情報の伝達を可能にするDNAやRNAは、こうした環境では生まれないのだ。90年代までの定説は、「生命は深海の熱水噴出口の周辺で誕生した」というものに変わった。これが、「生命40億年全史」の記述。DNAやRNAの生成過程なんて、どっぷり文系の僕の理解をはるかに越えているけれど、深海の熱水噴出口の周りで有機化合物が形成され、それがDNAやRNAを生み出して生物へと進化していくというイメージは、何か説得力のあるものだった。
ところが、本書を読むと、どうやら最新の知見では、生命は火星で誕生し、隕石によって地球に運ばれてきたという説にシフトしつつあるらしい。生命誕生時の地球環境に関する知識が蓄積されていくにつれ、どうも当時の地球環境では生命が誕生する条件が整っていなかったようだと科学者達が気づき始めたそうだ。そんな中、宇宙から飛来した隕石の中に生命の痕跡が発見されたため、もしかしたら地球の生命は宇宙からもたらされたのではないかと言う議論が生まれ、その当時の太陽系の惑星の状況を調べてみると、どうやら当時の火星の環境が、生命を生み出すのに最も適したものだと分かったそうだ。SFのような話だけど、本書を読むかぎり議論は説得的である。
なんにせよ、「起源の物語」は、常に神話的な相貌を帯びるものだと思う。いま、われわれがいるこの時空間の起源を問うことは、すなわちこの時空を超越することだから、人間の思考として神話か宗教を招き入れざるをえない。それは、どんなにデータを蓄積し、合理的な因果関係をつないでいく科学的思考でも同じだろう。火星で誕生した生命が、地球という環境で花を咲かせる。なかなか良い神話だと思う。
さらに筆者達は、数十億年後の地球環境についても議論を進める。その頃には現在の太陽が膨張して、地球の温度は上昇し、ついには膨張した太陽に飲み込まれる。そのような状態では、現在の形態の生命は生き残ることができない。筆者達は、おそらくその頃までに、(もしも生き残っており、科学を発展させていれば)人類は新たな居住の場を求めて火星へ、さらに太陽系外へと移住していくだろうと述べる。こうなると、ほとんどSFだけど、でもほんとにそうなのかもしれない。
これ以外にも、21世紀に入り発見された様々なデータを駆使して生命の誕生の歴史に迫っていく本書は、本当に面白い。例えば、超高層の大気圏でもウィルスが採取されるという事実。ちょうど、新型コロナウィルスの感染拡大でウィルスに関心が高まっている中、この事実は興味深い。この地球は、地上だけでなく海洋から大気圏も含めてウィルスで充満しているのだ。だとすると、生命進化を生み出した立役者はウィルスではないか?もちろん、ウィルス自身は自己複製ができないけれど、大気中を浮遊して他の単細胞生物や多細胞生物に侵入し、進化を促していったということであれば説明はつく。
それから、地球上を何度も襲った生物の大量絶滅と、その後の爆発的進化も面白い。僕らが子供の時代、恐竜の大絶滅は、火山活動の活発化がによるものという説明が一般的だった。火山爆発による火災と、その後大気中に大量に吐き出された火山灰による日光遮断による急速な気温の低下が、変温動物の恐竜を絶滅させ、恒温動物である哺乳類の発展を招いたと教えられた。でも、現在は、それだけでなく巨大隕石の衝突による地球全土の火災とその後の冷却化が原因だとされている。そうすると、哺乳類の多くもこの災害に巻き込まれて大量に絶滅したのだろう。
それだけではない。大量絶滅は、判明しているだけでも過去9回起きている。大気における酸素濃度の急激な上昇で温室効果ガスが失われて生じたスノーボールアース現象による大絶滅、地球の突然の極移動による絶滅、温室効果ガスによる温度上昇で海水面が上昇したことによる絶滅などなど。。。地球上の生物は、何度も大量絶滅を繰り返し、その度に、以前とはまったく異なる生物相を発展させてきた。
これは考えてみるとすごいことだ。今、現在、ここでブログを書いている僕という存在も、過去に遡っていけばかつて地球上に初めて登場した生命体に起源を持ち、一度も絶えることなく続いている生命の連鎖があってはじめて可能になっている。一度でも、連鎖が断ち切られていれば、僕という存在は成立しない。僕という身体に含まれる遺伝子情報は、様々な進化を経た結果なのである。現在の僕に至るまでの、長く偶然の要素に満ちた生命史を考えると頭がくらくらしてしまう。特に、何度もの大量絶滅の事実を知るとなおさらだ。地中から大量に硫黄ガスが吐き出され、ほぼ酸素呼吸ができなくなった地球上を生き延びたご先祖様がいたから、今ここに自分がいるなんてすごいことではないだろうか。
本書の最大の売りは、従来、主に地殻変動による大陸と海洋の変化、そして気温の変化から記述されてきた生命の歴史に、酸素濃度の変化という視点を導入した点にある。今までの考え方だと、シアノ・バクテリアによる酸素の生成の結果、現在とよく似た大気圏が成立し、それ以降は、植物の光合成と動物の呼吸で酸素濃度は安定した状態だと仮定されていた。しかし、最新の研究によると酸素濃度は、かなり大幅に変動していたらしい。このため、生物は酸素濃度の変動に応じて陸上に出たりまた海中に戻ったり、あるいは身体の構造を変化させたりという形でこれに適応してきた。この適応の過程が、生命の進化に大きな影響を与えてきたというのだ。
これを説明するエピソードがとても具体的で面白い。例えば、四足歩行型の爬虫類は、急速に移動しようとすると身体をくねらせなければならず、このため肺が圧迫されて十分な酸素を供給できない。これに対し、恐竜は、二足歩行型に移行することで十分な酸素を確保しながら獲物を追う能力を獲得し、大繁栄の時代を築いた。また、過去にはトンボなど巨大昆虫が飛び回っていたけれど、昆虫の呼吸システムはそれほど効率的ではなく、現代の昆虫が巨大化しようとしてもできないらしい。では、なぜ、過去に巨大なトンボが出現したかというと、当時はその巨大な身体を飛行させるだけの高い酸素濃度だったからとのこと。これは鳥類にも当てはまり、鳥類が飛行できるようになったのは酸素濃度の上昇が原因だったようだ。ただ、鳥類の場合、飛行生活を送る過程で、より効率的に酸素を取り込むことができる肺機能を進化させ、さらに体重の軽量化などを図った結果、現在でもそれほどサイズを変えることなく飛行し続けることができているとのこと。まるで見てきたかのように筆者達が展開する論考は本当に刺激的である。まさに目からうろこの世界。
まだまだ解明されていないことばかりだけど、それでも20世紀に比べて生命の進化の歴史は飛躍的に明らかになった。これを読んでいると、やはりキリスト教やイスラム教などの一神教が掲げる天地創造神話は分が悪いという印象を受ける。神様が作ったにしては、大量絶滅とか多すぎるし、現在の生命圏とは構造や形態がまったく異なる生命圏があったという歴史的事実は、神様がいろいろ寄り道したことになってしまう。リチャード・ドーキンスが「神は妄想である」で繰り返し語っているように、この世界はある統一的な意思によって作られたものではなく、多分に偶然の要素によってできたものであり、絶えず変化し続けるものだと説明した方が合理的だろう。
では、この世界は偶然の産物であり、そこに超越的なものは存在しないと言い切ることができるだろうかと考えると、その世界観はニヒリズムに過ぎるような気がする。そもそも、生命史が語っているのは、ある時、この地球上に出現した、生命という物理法則に反してエントロピーを高め、自己生成能力を通じて拡大していくユニークな存在の力強さだ。絶望的とも言える大量絶滅のたびに生きながらえ、新たな環境の下で適応放散して一気に拡大し、独自の生態系を構築して繁栄するこの生命という不思議な存在。そこには、個々の生命体の生存への意思と、さらに個々の生物体を越えた全体としての調和への志向を感じる。それは、あらかじめ超越者によって定められたものではなく、生命が生命である限り持っている生存への意思が生み出す調和世界である。それは、イメージ的には仏教的な生成と消滅による世界観や、曼荼羅的な生命の調和世界に近い。やはり仏教やヒンズー教の世界観の方が現実にあっているのかもしれない。
では、その生成消滅の根底で生を駆動させるものは何だろうか、そして個々の生命の活動を超えて全体的な調和を生み出す原理は何なのだろうか。そこは、再び、哲学や神学の領域になっていくような気がする。そして、この領域において知性というものが問い返されるのだろう。