ピーター・フォンダ監督「さすらいのカウボーイ」

BSで放映されたピーター・フォンダ監督・主演作品「さすらいのカウボーイ」を見る。1971年の作品。他にウォーレン・オーツ、ヴェルナ・ブルームなどが出演している。ピーター・フォンダは、「イージー・ライダー」や「だいじょうぶマイ・フレンド」など、俳優のイメージが強いが、監督作品も3本ある。そのレアな作品の一つを放映できるところが、BSシネマの強み。こういう映画史の中で埋もれた作品をきちんと発掘する作業、ぜひ続けてほしい。

この作品、1969年の「イージー・ライダー」のヒットを受けた、いわば柳の下のドジョウを狙った作品である。同年には、「イージー・ライダー」の監督で俳優としてピーター・フォンダと共演したデニス・ホッパーも呪われた傑作「ラスト・ムービー」を撮っている。「ラスト・ムービー」の方は、まさに呪われた傑作として大こけし、その後、デニス・ホッパーは長く干されることになるが、「さすらいのカウボーイ」の方は、当たらなかったとは言えそれほど問題にならずにすんだようだ。一部の批評家から「ヒッピー・ウェスタン」という褒めているのかけなしているのかよく分からないレッテルを貼られて、歴史の闇に埋もれてしまった。21世紀に入り、サンダース映画祭がこの映画を復刻させたことで注目を集め、現在は、時代を先駆けた西部劇として評価されているとのこと。「アシッド・ウェスタン」というサブ・ジャンルの一作と位置づける評論家もいるようだ。

確かに、「天国の日々」や「ブロークバック・マウンテン」を経た後に、改めて見直してみると、それほど悪い映画ではないと思う。物語は、アメリカ南西部をさすらうハリー(=ピーター・フォンダ)とアーチ(ウォーレン・オーツ)を巡って展開する。2人は、7年間放浪の旅を続けていた。そこにある若者が合流し、一緒にカリフォルニアに行って海を見ないかと誘いかける。アーチは、若者の誘いに応じてカリフォルニアに向かおうとするが、ハリーは放浪生活に疲れたと言って妻子が待つ故郷に戻ることを決意する。しかし、若者がトラブルに巻き込まれて亡くなり、やむなく2人は共にハリーの故郷に向かうことにする。しかし、7年間の不在の後に戻った夫に妻のハンナ(=ヴェルナ・ブルーム)は冷たかった。そして・・・。

確かに公開当時、「ヒッピー・ウェスタン」と呼ばれたのも分かる物語である。物語は、淡々と進む。彼らが旅する場面は、何重にもオーバーラップのかかった美しい映像が連鎖し、まるでミュージック・ビデオの走りのようだ。暗い夜の闇の中でぼそぼそと語り合う男達の姿は、「イージー・ライダー」の旅を彷彿とさせる。西部劇である以上、ガンファイトもあるが、華麗な決闘と言うよりむしろ不器用な殺し合いに過ぎない。さらに、妻のハンナは、あけすけに夫が不在の間の性生活についてアーチに語る。まさにカウンター・カルチャー全盛時代の映画だと思う。おそらく、西部劇を期待して映画館を訪れた観客は失望しただろう。当時の批評家の評価も高くなかった。

この映画の映像はただただ美しい。冒頭から、太陽の光を反射してきらめく川面の水を跳ね返す男のシルエットから始まるのだ。今から見ると、どこかのタレントのイメージ・ビデオのようで陳腐だけど、当時としては斬新な映像だったのかもしれない。映画は、その後も、男達が移動する際のオーバーラップ画面に、川面を馬で渡るハリーの姿や夕焼けに赤く染まる大地をバックに荒野を進むハリーの姿が織り込んだり、広大な白い砂漠を渡る二人の姿をロングショットで捉えたり、これでもかと美しいイメージを展開していく。さらにバック・ミュージックにブルースギターの旋律を加えて、この美しいイメージに哀愁を加えていく。多分、サンダースが復刻した後、21世紀の観客がこの映画を好意的に受け入れた理由の一つは、このミュージック・ビデオ的とも言える美しい映像と音楽にあると思う。

個人的に面白いなと感じたのは、キリストの受難を意識したと思われるピーター・フォンダの演出。

冒頭、若者が川で水浴びをするシルエットを捉えた映像は、キリスト教に受ける洗礼を想起させる。若者がトラブルに巻き込まれて射殺された姿は、上半身裸で下着だけの姿だが、どこかそれはキリストの受難を思わせる。そして、ハリーとアーチが若者の報復のために敵を襲う場面では、ハリーは敵の両足裏を撃って追跡ができないようにする。両足の裏に刻みつけられた弾痕はまるでキリストの聖痕のようにも見える。このようにキリストのイメージを辿った上で、映画の最後は、明らかに「ピエタ」を意識したと思われる映像が挿入される。ご丁寧に、胸から血を流しながら、聖母マリアに抱かれて息絶えるキリストと同じ姿勢を反復した映像を挿入することで、ピーター・フォンダは、2人の7年間にわたるさすらいの旅を、キリストの荒野におけるさすらいに模したかったのかもしれない。そうやって見ると、ピーター・フォンダの髭だらけの顔もキリストのイメージに見えてくるし、アーチに水を与える娘はマグダラのマリアにも見えてくる。映画として成功したかどうかはともかく、映画監督としてのピーター・フォンダの作家性は、そのような形でこの映画にも刻印されているのだろう。

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