藤井仁子編「入門・現代ハリウッド映画講義」

横浜への展覧会巡りの往復の車中で、藤井仁子編「入門・現代ハリウッド映画講義」を読む。きっかけは、「森崎東党宣言!」を読んだため。冒頭の論考を読んだら、久しぶりに映画を語ることの喜びがあふれる文章だったので、執筆者の藤井仁子の本をまとめて読もうという気になった。彼は、「甦る相米慎二」の編者でもある。森崎東と相米慎二!。このセレクションが気に入って、彼の編著をまとめ買いしてしまった。久々の映画研究書だけど、結構面白い。

本書がターゲットにしている読者層は、たぶん大学で映画に関する講義を受けている教養課程の学部生ぐらい?そのためか、平易な文章でわかりやすくテーマを提示し、参考文献や引用文献も極力抑えている。今時の学生は、こういう良質なテキストで勉強しているのかと少々感動する。

分析内容も面白い。基本的な問題関心として、ハリウッド映画は、かつての語りのエコノミーを重視したオールド・ハリウッドから、より視覚性を重視したニュー・ハリウッドに移行したと言われているが、このような図式化は可能かという点が共通認識としてあるようだ。山本直樹「映画への回帰ー『マイノリティ・リポート』再考」がこのあたりを映画研究史としてきれいに整理した上で、これに対する簡単な問題提起を行っている。厳しく制限されたページ数の中で、よくこれだけまとめたと妙なところで感心する。

お目当ての藤井仁子は、「デジタル時代の柔らかい肌ー『スパイダーマン』シリーズに見るCGと身体」で、映画の本質的特性だった「指標性」が、デジタル化によって失われ、ポスト古典ハリウッド映画の時代には、「類似記号」化するという基本枠組みを、スパイダーマンの一作目と二作目を精緻に分析することで検討する。たぶん、学術論文としてはそういう問題設定をしなければならないんだろうけど、作品の具体的な分析に入ると、いつの間にか物語論と主題論にずれていくところが面白い、実際、前半の問題提起の部分より、後半の物語/主題分析の方が圧倒的に面白い。この分析は、「森崎東党宣言!」所収の「屑の本分ー遅れてきた森崎東論」の面白さに通じるところがある。

その他の論文も、現代ハリウッド映画において、「メロドラマとは何か?」「技術としてのCGが、技法としてのCG表現をどのような形で生んでいるのか?」「マイノリティの表象は可能か?」「リメイクからパスティシュへの移行は映画に何をもたらしたのか?」等々、面白いテーマが並ぶ。

別に、こんな小難しいことを考えなくても映画は楽しく見ることができる。もしかしたら今時は、たかが映画にこんな理屈をつけていくような人間を「うざい」の一言で切り捨てるかもしれない。でも、このような分析視点を手にすることで、結果的に映画を見るという行為がより豊かになることもあるのだ。例えば、恋人と一緒にいるとき、自分のちょっとした仕草や振る舞いに自覚的になり、相手の反応の変化に気をつけながら少しずつ相手との良好な関係を維持し、深めていくように、映画に対する視点を自覚的に分析し相対化した上で、改めて映画に向き合うことができれば映画は今までとは別の相貌を帯びてくる。映画との関係が豊かになると言い換えても良い。そういう意味では、たまに映画の本を読むのも悪くはない。

とは言え、個人的には、たとえそれが学術書であっても、映画に対する愛を感じさせる内容であってほしいとは思う。高尚な理念や精緻な分析枠組みを延々と披露されても退屈するだけだ。そんなものは、誰も読まない論文をせっせと量産して大学のポストを狙う職業研究者に任せておけば良い。一般書として刊行する以上は、読者へのメッセージが必要だ。

本書は、この微妙な問題を、あくまでも「一本の映画」に寄り添った分析を提示することで乗り切ろうとする。すべての論文が、理論的課題を提示した上で、その具体例として一本の映画を取り上げ、これを分析するという体裁を取っているのはそのためだろう。このアプローチには好感が持てる。

面白いのは、どんな映画を取り上げるか、これをどのように分析するか、それをどのように語るかを読んでいると、そこに自ずと筆者の映画に対する愛の形が浮き彫りになってくるところ。学術論文の体裁を取っていても、愛情の深さが自ずと出てくる。この点でも、本書の白眉は藤井仁子の論文だと思う。映画的な分析枠組みなど、最終的には関係ないという形で、最後はサム・ライミへの愛情を露呈させてしまう論考、学術論文としての整合性はともかくとても気に入りました。この調子でどんどん映画の本を出していってほしい!

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