ヘンリー・キング監督「拳銃王」
BSで録画していたヘンリー・キング監督の「拳銃王」を見る。全くの予備知識なしで見始めたのに思わず釣り込まれてしまう。1950年の作品。主演はグレゴリー・ペック。考えてみれば、1920年代から30年代のハリウッドで最も成功した映画監督の一人であるヘンリー・キング監督について全く知らないのに映画好きを標榜するということ自体が間違っている。改めて自分の不明を恥じる。
グレゴリー・ペックが、リンゴ・キッドをモデルにしたアウトロー、ジミー・リンゴを演じている。彼は、「拳銃王」としてその早撃ちの技が全米に広まっている。このため、どの町でも、彼を倒して一旗揚げようという向こう見ずで命知らずの若者にまとわりつかれることになる。ジミーは、そんな生活に疲れ、身を落ち着けるために、かつて愛し合って子供までもうけたペギーが住む町に戻ってくる。町にはかつてのアウトロー仲間マークが今は落ち着いて保安官となっている。つかの間の再会。しかし、マークはジミーに、ペギーはジミーと会うつもりはないし、自分は保安官として町の治安を守るために一刻も早くジミーに町から立ち去ってもらいたいと告げる。しかし、噂を聞きつけて町の跳ね上がりの若者がジミーにまとわりつき始める。そして、数日前に同じようにジミーにからんで射殺された若者の兄弟たちが復讐のために町に向かっているという話も伝わってくる。そんな中、ジミーは何とかペギーと、まだ見ぬ息子と話をしようと奔走する。。。
物語の設定が面白い。西部劇の定番である早撃ちのガンマンが、その名声のためにどこに行っても命を狙われるという悲劇。やむを得ず決闘に応じても、正当防衛は認められず、トラブルを恐れる保安官や住民たちに町を追われ放浪の旅を余儀なくされる。後に残るのは死体の山と、本人の望まない早撃ちの伝説だけである。西部劇という英雄物語のジャンルを裏側から冷静に見つめる映画。そこにヘンリー・キング監督の批評精神を感じる。
しかも、このユニークな設定を効率的に提示するヘンリー・キング監督の手腕が見事である。たとえば、ジミーが滞在しているという噂を聞きつけて町の人たちが酒場の前に集まってくる。男の子たちも学校をサボってジミーを一目見ようと集まってくる。酒場の前はお祭り騒ぎだが、ジミーのことを怖がって誰も酒場に入ろうとしない。その子供たちの中にはジミーのまだ見ぬ息子もいる。小学校の先生は、教室に女の子しかいないので不審に思って尋ねると、ジミーが町に滞在していることを知る。実は、ペギーは名前を変えて小学校の教員をしているのだった。慌てて、息子を迎えに行くペギー。。。ジミーの噂が広まって酒場の前に人だかりができる場面から一転して小学校の教室に場面が変わり、黒板の前に立つペギーが映し出される。カメラが切り替わって生徒たちを映し出すと女の子しかいない、という形で映画は進行する。この場面転換の妙と、それが登場人物の紹介につながっていくという手際の良さ。ここでもハリウッドが培ってきた語りのエコノミーがある。
そして多彩な登場人物。町の良識あるご夫人たちは一刻も早くジミーを町から追い出すよう保安官に詰め寄り、酒場の向かいに住む老夫婦は自分の息子がジミーに殺されたと勘違いしていてジミーを狙撃しようと待ち構え、酒場の主人はジミーが滞在したという噂だけで人々が集まってくると期待してジミーにサービスを尽くす。ストーリーはシンプルだけど、こうした人々の交錯の中で、アメリカの「タウン」のコミュニティが持つ多彩な相貌が浮かび上がる。そして、訪れる悲劇・・・。
西部劇というジャンルそのものを相対化しつつ、きちんと物語を提示し、英雄の孤独、アウトロー同士の友情、そして愛する人への想いなどのテーマを語っていくヘンリー・キング監督。とても知的で端正な作品に仕上がっていました。