マルコ・ベロッキオ監督「シチリアーノ 裏切りの美学」

マルコ・ベロッキオ監督「シチリアーノ 裏切りの美学」を観る。「ポケットの中の握り拳」でデビューしてアンファン・テリブルと呼ばれたベロッキオ監督も既に80歳を超えた。21世紀に入ってからは、「夜よ、こんにちは」、「愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」、「甘き人生」など、イタリア現代史に取材した作品が並ぶ。本作も、その系列の作品だと言って良いだろう。

作品の舞台は、シチリア。マフィアの抗争が激化していた1980年代、パレルモ派の大物トンマーゾ・ブシェッタは、マフィアとしての生活に見切りをつけ、ブラジルに移住して静かな生活を送っている。しかし、シチリアでは、パレルモ派とコルレオーネ派の対立が激化し、ブシェッタがシチリアに残してきた家族や仲間達は次々と殺されていく。そんな中、ブシェッタは麻薬取引容疑で捕縛され、イタリアに送還される。待ち受けていたファルコーネ判事は、マフィアの麻薬取引の実態を証言するよう迫る。ブシェッタは、「コーザ・ノストラ」と呼ばれる誇り高きマフィア内部の結束を楯に最初は証言を断るが、徐々にマフィアの現状を理解しはじめる。コーザ・ノストラは、かつての仁義や人情を重んじた組織ではなく、金のためならどんな手段も選ばない凶悪な麻薬組織に変質していたのだ。ブシェッタは、コーザ・ノストラの血の掟を破って、判事に協力することを決断するが・・・。

これまでのベロッキオ監督作品同様に、映像は美しく劇的で、登場人物達も際だった存在感を見せる。ああ、オペラの国の映画だな、と思わずため息が出るほどのドラマチックな演出と演技。すべてが完璧で美しく、しかもマフィアの世界だけでなく、そこに歴史や社会が投影される。ただただ圧倒的な映像と物語世界に身を委ねるしかない至福の時間である。

この話は現実の事件に基づいている。時折、挿入される当時のテレビ映像や裁判の中継場面が、映画の世界に真実味を加える。圧巻は、裁判の場面。ブシェッタの供述により捕縛されたマフィアの幹部達が何十人も鉄格子の入った空間に収容されている中、ブシェッタが証人として裁判官の前に呼び出される。幹部達の怒号と野次で大混乱の中、検察の尋問に応えるブシェッタ。その発言を否定し、あらん限りの侮辱の言葉を投げかける幹部達。しかし、ブシェッタは動ずることなく、冷静に一つ一つ証言し、反駁していく。「対決」と称して一対一の証人喚問が行われる場でも、過去の細かい事実までを引き合いに出して相手の虚言に反駁し追い詰めるブシェッタに、他の幹部達は思わず「対決」から尻込みしてしまう。

たぶん、ベロッキオ監督が描きたかったのは、マフィアの世界でもなければ血の掟を破った裏切り者のスキャンダラスな物語でもなく、自分の信念と正義を貫徹するためにはどんなに圧倒的な敵であっても敢然と立ち向かう孤高のブシェッタという人物像だったのだろう。彼は、かつての仲間の変質を糾弾し、自分の肉親に手をかけた者たちの罪を徹底的に暴こうとする。その激しさが強烈な印象を残す。

もちろん、仲間を裏切れば、一生、命を狙われることになる。ブシェッタは、証言後、アメリカに逃れ、名前も変えてひっそりと家族達と暮らすことになる。FBIの保護の元、定期的に移動を繰り返す日々。家族達は、徐々にアメリカの生活に慣れ、妻も子供たちも職を得て新たな生活を始めようとするが、骨の髄までマフィアであるブシェッタにはそのような器用な真似は出来ない。孤独の中で、追っ手の恐怖に怯えて片時もライフルから手を離せないブシェッタの姿をベロッキオ監督は冷酷に描き出す。英雄から逃亡者へ。この決定的な落差もまた、ベロッキオ監督の世界の特徴である。

映画の最後、「夜よ、こんにちは」と同様に、ベロッキオ監督は、ひっそりと虚構のエピソードを付け加える。史実を忠実に再現し、マフィアと戦う孤高の英雄とその没落を描ききった後で挿入されるそのエピソードには、わずかな救いが感じられる。それは、歴史と対峙するという予め敗北を定められた者たちに対する監督のささやかな優しさなのかもしれない。ベロッキオ監督も、まだまだ作品を撮り続けてほしい。

(ちなみに、以前のブログで、「愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」について少し長い記事を書いています。ベロッキオ監督作品のつきせぬ魅力を語っているので、ぜひあわせてご覧下さい。)

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