クローズアップ現代「黒沢清監督が語る」

黒沢清監督が新作「スパイの妻」でベネチア映画祭監督賞を受賞した。メディアは、北野武監督以来の17年ぶりの快挙として取り上げている。「ドレミファ娘の血は騒ぐ」以来のファンとしては、もちろんこのニュースは喜ばしいかぎりだし、10月に公開されるこの作品をひとりでも多く映画館で見てほしいと思う。

NHKのクローズアップ現代でも黒沢清監督を招いた番組を放映するということで、早速、見てみる。うれしさ半分、不安感半分という感じ。NHKで黒沢監督が語り、メジャーになるのはもちろんうれしいけど、他方で、戦時下の日本で正義を貫こうとしてスパイの嫌疑をかけられた夫を救うために奔走する妻を描いた物語をクローズアップ現代が取り上げるとなると、やはり第二次世界大戦の問題や国家機密の問題に焦点を当てざるを得ない。そのことの重要性は良く理解しているつもりだけど、「だからこの映画には価値がある」というのはやめてほしいというのが正直な気持ち。映画をテーマ性だけで評価するのだけは勘弁してほしい。

しかし、そこは黒沢監督。そんな杞憂を払拭するように、丁寧に言葉を選びながら話を進めていく。インタビューの冒頭から、「僕は、社会と個人の関係性を描きたいために映画を作っているわけでは全然ない」とはっきり言う。でも、もちろん、映画を撮ると言うことは個人を描くと言うことであり、それはどこかで社会と個人の軋轢につながっていくと言うことを黒沢監督は否定しない。表現が先であり、その表現に真摯であろうとすれば、社会を描かざるを得ないということだ。さすが黒沢監督。

武田キャスターも、良い感じで話を進めていく。黒沢監督の作品の魅力として、「印象的な長回し」「光と影、そして風」「こわれていく日常」の3つを挙げて、黒沢監督に解説してもらう。良いポイントを突いていると思うし、黒沢監督の回答も明快だ。

長回しについての黒沢監督の説明は、撮影現場で撮影している時の持続する緊張した時間を観客に届けるため、とのこと。カットしては伝わらないなにかが撮影現場にあることを黒沢監督は十分に理解している。どんな虚構であったとしても、映画として撮影しているかぎり、そこに展開する生身の俳優の身体と、その空間はリアルである。その意味で、すべての映画はドキュメンタリーでもあるのだ。これを伝えるために、黒沢監督はショットの持続にこだわる。

光と影、そして風を描くというのは、もちろん美的設計のためである。でもそれだけではない、と黒沢監督は続ける。風とは、映画のフレーム外の何ものかが、フレーム内に侵入してくる事態である。言い換えれば、フレームの中に風が取り込まれる時、閉じたフレームがフレーム外に対して開かれる。それは、そのまま映画が世界に対して開かれる瞬間と言っても良いだろう。ジョン・フォードの風、タルコフスキーの風、宮崎駿の風・・・、映画において、風が持つ神秘的な力に、黒沢監督は自覚的である。

そして、こわれていく日常。もちろん、地獄の警備員、回路、カリスマ、アカルイミライ、散歩する侵略者・・・と、黒沢監督の作品では、常に日常の中に侵入してくる非日常が描かれてきた。その意味で、黒沢監督作品は、すべて恐怖映画だと言ってもいい。では、その根底にあるものは何か、という問いへの黒沢監督の回答が深い。それは、結局、日常において人々の理解を超えている「死」というものが、ふと気づくとすぐ後ろに迫っているという事態ではないかと黒沢監督は言う。それは人間が生きていることの本質でもあるのだ。ということは恐怖映画=死の恐怖=人生である。この発言はすごい。映画を通じた思考が世界に対する原理的な思考へと広がっている。

インタビューは、なぜ映画を観るのかと言うという問いで終わる。これに対する黒沢監督は、不特定多数の人間が、ある時、ある空間で、ある映画を共有すると言うこと、それを通じて他者と何か価値観を共通したり、差異を発見すること、ここに映画を見ることの価値があると答える。教育も社会的地位も文化的背景も異なる多様な個人が暗闇の中で同じものを見るという経験。しかも、それは、時代を超え、国境を越え、言語を越えた共通体験なのである。確かにこれは人類の歴史において、画期的な事態だった。

わずか30分の番組で、自身の映画哲学だけでなく、ある意味で映画を見ると言う行為の文明史的意義まで語ってしまった黒沢監督。改めてお祝いしたいと思います。「スパイの妻」公開が待ち遠しい!」

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