「MANGA都市TOKYO」展@国立新美術館
国立新美術館で開催されている「MANGA都市TOKYO」展を見る。これも日本博の一環。東京オリンピックが開催されていたら、日本のMANGAを海外に発信する貴重な機会になったのかもしれないが、新型コロナウィルスのおかげで、英語、中国語、韓国語、日本語の4カ国語による挨拶パネルがむなしくなった。でも、おかげで日本人はのんびりと鑑賞できる。
この展覧会、もともとは2018年にフランスで開催された「ジャポニズム2018」の「MANGA⇔TOKYO」展の凱旋イベントである。キュレーターは明治大学国際日本学部准教授の森川嘉一郎。彼は、2004年にヴェネツィア・ビエンナーレで日本館のコミッショナーとして「おたく:人格=空間=都市」も企画している。日本のオタク文化や漫画文化を「クールジャパン」として喧伝する企画のいわば第一人者。
今回の展示の最大の売りは、巨大な東京の精密模型。背景にはスクリーンが設置され、「シン・ゴジラ」「エヴァンゲリオン」「アキラ」「言の葉の庭」などの特撮映画やアニメの一場面が上映され、その舞台に該当する精密模型の一点が点灯するという仕掛けになっている。なるほど、あの場面はあそこだったのか、と妙に納得してしまう。パリジャンは、これを見ながら、それなりの「聖地感覚」に浸れたのではないだろうか。
展示は、「イントロダクション 1/1000巨大東京都市模型」、「セクション1 破壊と復興の反復」、「セクション2 東京の日常」、「セクション3 キャラクターvs都市」の4部構成である。
セクション1は、ゴジラからアキラ、エヴァンゲリオンまで、繰り返し様々な怪獣やロボット、超能力者によって破壊されてきた東京がテーマ。その破壊と復興の記憶は、言うまでもなく、江戸の大火から関東大震災、東京大空襲などの記憶と通底し合う。その意味で、破壊者達は、都市の記憶を体現したものたちでもある。懐かしい作品が並んでいるが、大友克洋の「火要鎮」を見ることができたのはラッキーだった。海外生活が長い僕には、ポツポツと日本のアートに触れることが出来なかったブランクの時期がある。あの頃、大友さんはこんな古典回帰をしていたんだと知ってちょっとうれしくなる。
セクション2は、東京をよりミクロな視点で捉えようとする。対象は江戸時代から近代日本を経て、バブル時代の東京、そして世紀末から現代まで。その中では、やはり江戸と昭和が魅力的である。江戸時代の人びとの暮らしは、今、現在のこの土地と同じ場所に住んでいたとは思えないくらい、自由で粋だった。その魅力を、杉浦日向子から松本大洋までの漫画作品を通じて明らかにする。次いで、昭和。やはり自分が生まれた時代は懐かしい。あしたのジョーの世界は、今や失われてしまった時代の名残を感じさせる。もちろん、バブル時代のシティハンターやトーイも懐かしいし、岡崎京子のリバーズ・エッジの閉塞した世界も今となってはノスタルジアになりつつある。
セクション3は、なんだかとってつけたような感じ。多分、初音ミクとかこち亀とかガンダムを展示しなければならない理由があったのだろう。あるいはもしかしてJRがシンカリオンを出さないと協賛しないと言ったとか。。。まあ、下世話な詮索はともかく、ラブライブ!の写真を撮らせてもらえるのは観客サービスとして悪くはない。
こうやって見ていくと、特撮・アニメ好きにはそれなりに楽しめる展覧会だったと思う。そこら中で、結構シニアなグループが昔の作品に蘊蓄を傾けていたり、見るからにオタクな男の子のグループがオタクネタを連発して思いっきり自分たちだけの密やかな笑いの世界に浸っていたりしていた。オタク女子が食い入るように原画をみていたことは言うまでもない。それはそれでよく出来た展覧会だったのだろう。
そもそも、アニメ・特撮だけでも、大友克洋(「アキラ」「火要鎮」、庵野秀明(エヴァンゲリオン、シン・ゴジラ)、宮崎駿(ルパン三世・アルバトロスの翼)、新海誠(秒速5センチメートル、言の葉の庭、君の名は、天気の子)、渡辺信一郎(残響のテロル)、今敏(千年女優、東京ゴッドファーザーズ)、押井守(人狼、パトレイバー)、細田守(時をかける少女、おおかみこどもの雨と雪)など、良質な映像作家達がきちんとセレクトされている。キュレーターの趣味の良さが伺える。
でもその一方で、この展覧会を見ながら、ある種のむなしさを感じたのも事実。この展覧会は、「東京を舞台にした作品」をテーマとしながら、そのほとんどが「東京という土地」に根付いていない印象を与えるからである。特に、平成以降の作品がそうだ。少なくとも江戸から昭和までは、それぞれの作品に描かれた土地が、独特の風土を持ち、その地名は今でもある種の記憶とノスタルジアを喚起する。江戸であれば吉原や浅草、昭和であれば新宿や上野。大火や地震や戦災をくぐり抜けて、その場所には人びとの生活の記憶が堆積している場所を舞台にした作品の強度は、すなわちその場所の歴史の重さでもあった。
しかし、あえて一般化すれば、平成以降の作品にはそのような土地の重みが感じられない。新海誠の作品は、たまたまその場所を舞台にしただけで、土地の記憶から切り離されているという印象を受ける。3月のライオンもそうだ。もちろん、庵野秀明がシン・ゴジラによって破壊した永田町や虎ノ門、渡辺信一郎が若きテロリストの破壊の標的とした東京都庁舎、あるいは押井守が謎の軍事部隊を通じて消滅させようとしたお台場などは場所としての強度を保っている。しかし、それは決してノスタルジアの対象などではなく、自分たちの大切なものを侵食し消滅させようとするなにかの象徴として、徹底的に抗い破壊すべき対象だった。これは一体どう云うことだろう。
例えば、ニューヨークやパリを舞台に同じような展覧会を企画すれば、それはノスタルジアに満ちたものとなるだろう。香港ですらそうだ。街を歩けば、あの映画のあの場面がそこにあり、一時、人はその映画を観ていた時の記憶を蘇らせて郷愁に浸ることが出来る。場所と映画とその映画を観ていた個人の記憶が融合し、人は暖かく親密な気持ちに包まれるだろう。しかし、「マンガ都市東京2020」が露呈した東京という場所は、たかだか30数年前の時代に遡行することすら許さないほどに変容を遂げた冷たい空間である。それを「進化」とか「成長」と呼ぶのはたやすい。けれど、そうしたかけ声の下に、そこに住んでいた人たちの生活と場所が巨大な資本によって根こそぎに破壊され、抽象的で均質的な消費空間に代替されてしまったというのが現実である。そこに人の匂いは感じられず、土地の記憶などもない。そのことと、格差・貧困や孤独など、現代日本が抱える諸問題とは無関係ではないだろう。
現代版の「国威発揚」プロジェクトである「ジャポニズム展」や「日本博」の目玉企画が図らずもあらわにしてしまった空疎な空間としての東京。「クール・ジャパン」などという21世紀初頭に破綻が実証されている政策にいまだにこだわり、「beyond 2020」と称してさらに文化の破壊と統制を続けようとする政府にいらだちを感じつつ、僕は展覧会場を後にしたのだった。
渡辺信一郎に、大友克洋に、押井守に、撮りたい映画を撮らせろよ!