山下耕作監督「緋牡丹博打」

山下耕作監督「緋牡丹博打」をBSシネマで見る。富司純子主演の任侠映画シリーズの第一作。明治中期、九州のヤクザ矢野一家の一人娘、矢野竜子(=富司純子)が、父親を殺され、一家を乗っ取られる中、「緋牡丹のお竜」として諸国の賭場を回り渡世修行をするという物語。半身諸肌となって魅せる緋牡丹の入れ墨と、賭場での華麗なサイコロさばきで一世を風靡し、60年代から70年代の人気シリーズとなった。毎回、高倉健、鶴田浩二、菅原文太などの客演男優が花を添えたのも人気の一因。

今回、見直してみて、この映画は任侠映画の主人公を女性にした点だけでなく、ジェンダーのあり方を考える意味でも面白い作品だと感じた。

お竜は、「女だてら」に任侠の道を貫こうとする。賭場の場面でも、諸肌脱いでふんどし腹巻き一丁で賭博に興じる男たちの中、紅一点で着物を着て端座する姿に彼女の特異性が際立つ。任侠道は男の世界であり、お竜のような存在は所詮「女だてら」の例外だから、いわば客人扱いである。お竜自身もそれをよく自覚している。だからこそ、彼女はいっそう任侠道の価値観を貫こうとする。その姿は、1980年代、男女雇用機会均等法の成立を機に積極的に社会に進出しようとした女性たちの姿にも重なる。少数派の「女だてら」だからこそ、普通以上に男性的価値観を内面化し、これを貫こうとした彼女ら第一世代は、相当、無理をした。考えてみれば、任侠の世界にせよ、戦後日本のサラリー「マン」社会にせよ、その価値観は実はいい加減なもので、中には多様性があったはずなのである。しかし、そこに参入しようとする少数派にとって、その規範は絶対化する。お竜を含めた彼女らの困難はそこから生じる。

面白いのは、映画の中でこうした価値観の相対性を説き別の生き方を提示するのが、お竜を助ける高倉健の方だという点である。高倉健もまた、任侠の世界にどっぷりと浸りこれを徹底的に内面化した存在である。どんなときでも着流しにドスを仕込んでいる姿がそれを物語っている。しかし、彼は、明治の近代化の中で任侠道が廃れ、義理人情より金儲けと出世が大切だという価値観が登場する変化について行くことができない。そういう意味で、彼もまた任侠の価値観を体現しているために少数派に転落せざるを得ないという皮肉な運命を甘受している。だからこそ、高倉健はお竜が任侠の価値観を貫こうとするのを諫め、人間としての価値観の重要性を説く。

映画全体のトーンは、「女としての幸福=いい人と結婚して幸福な家庭を築く」がお竜のあるべき価値だと説いているように見える。主題歌の歌詞も、このテーマを反復している。それは、1960年代から70年代にかけて、プログラム・ピクチャーとして売り出すためにはやむを得ないことなのだろう。しかし、少なくとも脚本では、そうした「女としての幸福」ではなく、むしろより普遍的な「人としての価値」が強調されているようにみえる。

このことは、父親を殺した犯人に復讐しようとするお竜をとどめて高倉健が語りかけるセリフにも明らかである。高倉健は、「俺はあんたに人殺しをさせたくない。一度、人を殺して血で汚れてしまったら、その血はいくら拭っても消えることはない。あんたは一生、それを背負って生きていくことになる。それでもいいのか。」と語りかける。このセリフに託されているのは、任侠の世界や男女の役割分担などの世界を越えた、より普遍的な人間としての価値だろう。山下監督がこのメッセージにどこまで自覚的だったかはわからないが、緋牡丹博打シリーズのすべての脚本を担当し、その後、監督として女番長シリーズを撮ることになる鈴木則文はもしかしたらこのことに自覚的だったのかもしれない。そのことを考えると、画面に時折挿入される黒牡丹と緋牡丹、背景色の黒と赤も象徴的な意味を帯びてくる。黒と緋は、男と女の対比ではなく、任侠と人情、あるいは人の道を外れるか外れないかの対比だったのではないだろうか。

ディープな九州弁を駆使し、娘と女と母性と侠客という複数のアイデンティティを軽やかに越境していく富司純子の魅力。さらに、任侠の世界自体に押し寄せてくる近代化の波。しのぎの場を切り替えたものだけが生き残っていける時代の転換の中で、任侠道という価値観を人はどこまで背負っていくことが出来るのか。アイデンティティのポリティックスと、歴史の転換が交錯する。このテーマは面白いし、現代にも通じるものがあると思う。阪本順治監督あたりにぜひリメイクしてほしい作品である。ただ、女優の選択は難しそうだけど。。。

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