「京都の美術250年の夢 第1部〜第3部 総集編−江戸から現代へ−」展@京都市京セラ美術館
大阪で「奇才ー江戸絵画の冒険者たち」と「天目ー中国黒釉の美」展を満喫した翌日は、京都に移動する。お目当ては、京都市京セラ美術館の「京都の美術ー250年の夢」展。京都画壇は、伊藤若冲、曾我蕭白、長沢蘆雪などの奇想の画家たちが人気を集めていて脚光を浴びている。その伝統を受け継ぎつつ、さらに明治に入って、東京とは異なる独自の美意識の下、独特の近代絵画を発展させた京都の美術を展望しようという意欲的な展覧会である。
首都圏にいると、どうしても東京美術学校〜東京芸大出身者の絵画を見る機会が多くなるし、近代絵画史の枠の中で作品を考えてしまう。だから、こういう形で京都という土地に根ざした作家の作品を系統的に見せてもらえるのはとても勉強になる。しかも、今回の展覧会は、絵画だけでなく、工芸作品も展示するので、例えば京焼や楽茶碗などの伝統がその後のアートの発展にどのような影響を持っていたかを考える上でも興味深い。
例えば、明治初期の日本画で言えば、谷口香嶠の「残月山姥図」とか、西山翠嶂の「春霞」、洋画で言えば、田村宗立の「加代の像」や寺松国太郎の「食後」など、独特の魅力を持っているけれどもなかなか見る機会のない作品に接することが出来たのは収穫だった。
そして、もちろん京都画壇の竹内栖鳳、木島櫻谷、堂本印象、入江波光、村上華岳、小野竹喬、岡本神草、土田麦僊、上村松園、橋本関雪、山口華楊、徳岡神泉、福田平八郎などの巨匠たち。印象的だったのは、野長瀬晩花の「夕陽に帰る漁夫」。巨大な画面一面がほぼ赤系統の色で統一されている中、漁具を抱えた漁夫の一群が帰宅する姿を描いた大作だけど、ほとんどフォービズムを思わせる激しい色彩の乱舞と、抽象的な面に還元された形態が織りなすリズムに圧倒された。まだまだ近代日本絵画史には知られざる傑作がある。
こうやって見ていると、日本の近代絵画史は単線的なものではなく、地域によって特色があることがよく分かる。特に、京都のように、京都美術学校などの教育体制が整備されており、さらに卒業生が京都の巨匠たちの画塾でさらに学び続け、互いに交流し合うシステムが整備された土地であれば、東京とは違う発展を遂げるのは当然だろう。それは、日本画だけでなく、洋画や工芸作品についても言えることだと思う。
西洋から貪欲に最新の表現技法を取り入れて作品を作り続けていった東京に対し、そこから一歩身を引いたところで、自分たちの技術と美意識を大切にしつつ、これを豊穣化させる手段として西洋の絵画技法を取捨選択した京都。京都画壇の作品に通底している日本的としか言いようのない美的感覚を考えると、ついそんな乱暴な図式化を行ってみたくなる。色彩、構図、表現、タッチ・・・。それはもちろん多様なんだけど、やはりそこには共通の基盤がある。それは、コスモポリタンを志向する東京都は異質の、土地に根ざした何かである。これだけグローバル化が進んだ現代においては、もしかしたらこういう京都的なものの方が人の心を捉えるのではないだろうか。
ということで、画期的な展覧会だったと思います。ただ、京都に関係のある作家であれば、誰でも「京都の美術」にカテゴライズしてしまうところは、ちょっと文化帝国主義を感じてしまいました。特に戦後から現代の作品がそう。ヤノベケンジ、やなぎみわ、森村泰昌などの大阪や神戸出身の作家まで「京都の美術」に入れてしまうのは少々やり過ぎのような気がしました。彼らは京都の美大で学んでいるけど、活動の拠点は京都ではありません。現代アートはグローバルだとはいえ、もう少し「京都」らしい作家を選んでほしかったと思います。