ジョン・ファヴロー「カウボーイ&エイリアン」
BSシネマでジョン・ファヴロー監督の「カウボーイ&エイリアン」を見る。2011年の作品。ダニエル・クレイグ、ハリソン・フォード主演。製作にスピルバーグやロン・ハワードが入っている。
僕は、この作品を公開当時にアメリカで見ている。西部劇にSFの宇宙人侵略者を加えるという発想に興味を持ったけれど、見てみるとキワモノではなく、とても丁寧に西部劇の世界を作り上げていて好感が持てた。ネイティブ・アメリカンとの交流とか、死んだはずの女が炎の中で甦る場面なども神秘的で良い感じだった。
今回、改めてロング・バージョンを見直してみて、やっぱり良い映画だなと実感。後半のSF的な展開は、宇宙戦争以来の宇宙人侵略モノで既視感が漂って少しダレるけれど、それを補ってあまりあるのが西部劇というジャンルの豊かさ。男と女の出会い、父と子の確執、西部に流れてきたインテリとそれを支えるメキシコ娘、ネイティブ・アメリカンと南軍の元大佐との間に生まれる戦士ならではの心の交流、そして何よりも、西部劇では常に年上の男が少年を大人へと導いていく。。。これだけ様々な物語を詰め込むことが出来る希有のジャンルとして、西部劇はもっと見直されてよいと思う。
多分、西部劇は、シンプルなタウンと荒野を舞台とするからこそ、こういう形で生身の人間同士の交流や触れあいのドラマを描けるのだと思う。むき出しの荒野の中では、人間は個として互いに敬意を示すか、さもなくば殺し合うしかない。そういう極限的な状況における人間を描けることが、西部劇の魅力なんだろう。たとえ、そこにエイリアンが入ってきたとしても。。。
同時に、この映画でもキリスト教の世界観が濃厚に立ちこめている。ダニエル・クレイグという役者は、どこか荒野をさまようイエス・キリストに重なるイメージがある。もちろん、彼はキリストのように愛を説くわけでもなければ奇跡を起こすわけでもない。むしろ、この映画では平気で仲間を裏切るならず者である。しかし、彼が記憶を失った状態で荒野に覚醒し、そこに3人のならず者が通りかかる場面では、なぜかその3人がキリスト生誕の際にこれを祝福した東方の3賢人のイメージが重なる。ダニエル・クレイグは、その後、街に行って腹の傷の手当てを教会で受けるだろう。そこで横たわり、腹から血を流しながら手当を受ける姿は、どこか十字架から降ろされたキリストを思わせる。そのイメージは、その後、女に抱かれて横たわり、過去の記憶を取り戻す場面でも反復される。その姿はなぜかマリアに抱かれるキリストを描いたピエタに重なる。映画中では旧約聖書におけるモーゼの使いが砂漠で迷う場面が引用される。ジョン・ファヴロー監督がどこまで意識的だったかは分からないけれど、こうした伏線があるから、映画の最後で巨大な塔のようなエイリアンの宇宙船があらわになったとき、そのイメージがこれも旧約聖書のバベルの塔に重なるのである。
宇宙船の胎内に侵入して自らを犠牲にして人びとを救う女や、エイリアンに捕らわれて光を見続けることで記憶を失ってしまった人びとがそこから解放されてぞろぞろと荒野に姿を現す場面も含めて、イメージがシンボリックに統合されているわけではないけれど普通の娯楽映画とは異なる何かを感じさせる不思議な魅力を持った映画だと思う。そうそう、何の説明もオチもないけれど、映画の中で2度登場するハチドリもどこか天使のような気配を漂わせていた。これも引っかかる。。。仕方がないからもう一度見直すか。。。