テイラー・ハックフォード監督「愛と青春の旅だち」

テイラー・ハックフォード監督の「愛と青春の旅だち」を見る。1982年の作品。リチャード・ギア、デブラ・ウィンガー主演。鬼軍曹役のルイス・ゴセット・ジュニアがアカデミー助演男優賞を受賞。主題歌の「愛と青春の旅だち」がアカデミー歌曲賞を受賞した。

この映画が公開された当時、僕は大学生で、授業にはほとんど出席せず、バイトと映画に明け暮れる日々を送っていた。多分、1982年は300本以上の映画を見ていたはずである。もちろん、ビデオがまだ普及していない時代だったので、映画を見るということはすなわち映画館に行くということだった。貧乏学生だった僕は、ロードショー公開作品を見る贅沢は女の子とのデートのときぐらいで、もっぱら名画座(当時はまだミニシアターなんていうしゃれた言葉は定着していなかった)で二本立て、三本立てを見、週末のオールナイト上映で4本まとめてみるなんていう生活を送っていた。今から考えると、すごいことをやっていたと思うけれど、当時の僕にとっては、それが日常だった。

もちろん、僕はこの映画の公開も覚えている。リチャード・ギアの作品は、「ミスター・グッドバーを探して」も「天国の日々」も見ていて、気になる俳優ではあったから、「愛と青春の旅だち」を見てもおかしくはなかったけど、結局見逃してしまった。タイトルから、ありきたりの青春ものだと思い込んでしまったのかも知れない。

今回、BSシネマで放映されたので、たまたま見ることになったんだけど、いきなり冒頭から映画の世界に引きずり込まれてしまった。薄曇りの光が窓から入ってくる部屋の中で、リチャード・ギアが佇んでいる。側のベッドには、一組の男女が裸で横たわっている。リチャード・ギアが、うつ伏せになった男の頭にゆっくりと体を寄せていく。と、いきなり回想場面に切り替わって、フィリピンに一人で到着した子供時代のリチャード・ギアになる。空港では、父親が待ち構えていて、リチャード・ギアをピックアップすると、米軍スービック基地近くの自宅に連れて行く。そこは、米兵相手の娼館で、二人のフィリピン人娼婦が父親の「妻」として紹介される。再び、現在に戻り、起き出してきた父親に、リチャード・ギアは、士官学校に入学すると告げる。横たわっていた女は父親がリチャード・ギアの「大学卒業祝い」に呼んだ娼婦だった。リチャード・ギアは、「素敵な卒業祝いありがとう」と父親に言い残して部屋を後にする。。。。

「愛と青春の旅だち」というタイトルからは想像もつかないハードなオープニングである。しかも、フィリピンの娼婦街やマーケットにたむろするストリート・ギャングのリアリティが普通ではない。この映画は、リチャード・ギアが甘いマスクで青春を謳歌する話かと思い込んでいたので、これには驚いた。

物語は、その後、シアトルのレーニエ士官学校で、士官候補生としてパイロットになるための訓練を受けるザック(=リチャード・ギア)とその仲間たちを巡って展開する。柱となるのは、教官のフォーリー軍曹(=ルイス・ゴセット・ジュニア)の鬼のような厳しい訓練。そして友人のシドとその恋人のリネット、そしてリネットの友人でザックに心を寄せるポーラ(=デブラ・ウィンガー)の2組のカップルの愛の物語である。ポーラとリネットは、街の製紙工場で働く貧しい家庭の出身であり、士官候補の二人との付き合いに心を躍らせているが、同時に、士官候補生はいつか訓練を終了し、次の訓練に向けて自分たちの元を離れるかもしれないことを自覚している。ザックとシドは、任意除隊率が50%を超える厳しい訓練を耐え抜くことができるのか、二組のカップの恋の行方は。。。

こういう風に物語を説明すると、どこにでもある出会いと別れの青春物語だと思うだろう。実際、この作品はミュージカル化され、宝塚歌劇団が日本でも公演している。

もちろん、この映画は、青春映画としても、恋愛映画としても、あるいは士官学校での厳しい訓練を耐え抜いた仲間の物語としても秀逸だと思う。でも、公開から40年近くが経った今から見ると、別の物語が見えてくる。

一つは、登場人物それぞれが何らかのトラウマを抱えて生きている点。主人公のザックは、父親に捨てられた母親が自分に一言も告げずに自殺してしまったことに深く傷ついている。その後、父親に引き取られ、フィリピンの娼館で娼婦たちとともに青春時代を過ごしたという過去にも負い目を感じている。友人のシドは、軍人の家庭に育ったお坊ちゃんだが、兄がベトナム戦争で戦死したという過去を抱えている。彼にとって、兄の代わりに士官になるということがある種の強迫観念となっている。さらに、ポーラは、自分の父親がザックと同じような士官候補生であり、母親が自分を身ごもった後、父親に捨てられたことに深い負い目を感じている。

愛し、信頼していた者の突然の死。あるいは愛していた人間との突然の別れ。これによる深い喪失感。現代であれば、それはPTSDとして治療の対象になるようなストレスだろう。もちろん、1970〜80年代においても、ベトナム戦争帰還兵のPTSD問題は深刻な社会問題だった(マイケル・チミノの「ディア・ハンター」!)。「愛と青春の旅だち」は、青春群像を描きつつ、ベトナム戦争を巡って米国社会に深い傷を残したトラウマと、そこからの回復の物語を提示することができたからこそ、当時の観客の圧倒的な支持を得たのかもしれない。

もう一つのテーマは「格差」。ザックは、フィリピンの娼館で育ったという過去の負い目から逃れるために、苦しい訓練に耐えて華やかな士官としてのキャリアを夢見る。シドの恋人のリネットも、士官候補生の妻として世界各地に赴任することが夢である。その背後には、製紙工場で働くつらい日々がある。映画は、華やかな士官学校での生活と、彼女らの貧しい生活を対比させる。

でも、これだけであれば、貧しい娘のシンデレラ・ストーリーになってしまうだろう。「愛と青春の旅だち」が、こうしたありきたりの物語を超える魅力を放つのは、フォーリー軍曹の存在である。彼は、ザックたちが士官学校に到着した時点から、徹底的に彼らをしごく。「自分に視線を向けるな」「サーと呼べ」「命令にはすべてイエス・サーと答えよ」・・・。軍曹は、士官候補生の人格を否定し、厳しい訓練を課し、少しでも訓練についてこれなければ、「任意除隊」を突きつける。強烈な悪役的存在である。しかし、映画の最後、士官候補生が卒業式を迎え、士官になった瞬間に、彼は態度を変える。今まで徹底的にしごいてきた教え子たちを「サー」と呼び、士官として対応するのだ。その転換を彼は、何の違和感もなく、ごく職業的にこなす。それが、なんとも言えず感動的である。内面の屈折など一切感じさせずに、つい昨日まで呼び捨てにし、罵倒してきた教え子たちも士官として敬礼し、士官学校から送り出す彼の姿。厳格な階級社会である軍隊において、一軍曹に与えられた役割は、それ以上でもそれ以下でもないというプロフェッショナリズムといってもよいだろう。しかし、見ている観客は、そこに、ある種、絶対に乗り越えることができない「格差」を見いだしてしまう。その格差は、実は、ザックやリネットを突き動かしている貧困という格差ともつながっているのだ。そのような社会の理不尽さを一身に引き受けた演技が評価されて、ルイス=ゴセット・ジュニアは、アカデミー助演男優賞を受賞したのかも知れない。

これ以外にも、この映画の魅力はまだまだある。この後、ベルトリッチ監督の「シェルタリング・スカイ」で圧倒的な存在感を放つことになるデボラ・ウィンガーは、この作品でも魅力的である(帽子姿がなんとも言えず官能的!)。リチャード・ギアの、一見、如才なく世間を渡っていけそうなスマートさを身につけているけれど、心の奥では深い心の傷と屈折を抱えていて、時折、それが奔流のように爆発するという演技も、本当に素晴らしい。

そして、シアトルの街並み。この映画では、明るい陽光の下での士官学校の場面以上に、曇天の下で長々と続いていくぬかるんだ道が印象的に撮影されている。このどんよりと立ちこめる曇り空が、まるで登場人物の心に重くのしかかっているようだ。映像の力を感じる。

やはり、名作と呼ばれる作品は、たとえそれが数十年前の作品であっても、何か発見があり、心に触れる場面がある。テイラー・ハックフォード監督、今まで完全にノーマークだったけど、考えてみれば「ホワイトナイツ/白夜」、「ディアボロス/悪魔の扉」、「Ray/レイ」、「Parker/パーカー」も話題作だった。もう少しきちんと見てみよう!

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