リドリー・スコット監督「ブレードランナー ディレクターズ・カット版」

リドリー・スコットとトニー・スコットとどちらがシネアストとして偉いかと聞かれたら、無条件にトニー・スコットと断言するのが、シネフィルの意地である。と言いつつも、まだシネフィル駆け出しだった1980年前後には、僕もリドリー・スコットの「エイリアン」と「ブレードランナー」に熱狂した。「ブラック・レイン」も「テルマ&ルイーズ」も悪くないと思ったし、密かに「ロビン・フッド」も気に入っている(半分以上はケイト・ブランシェットが出演していると言うだけの理由だけど)。でも、最近のリドリー・スコットのひどさは目に余る。「プロメテウス」も「オデッセイ」も「エイリアン:コヴェナント」も観た後に脱力するほど底が抜けている。ちょうど、トニー・スコットが亡くなった直後から悪化したので、もしかしてこれまでの作品はトニーが協力していたのではないかと勘ぐってしまうぐらいひどい。

だから、リドリー・スコット監督が、「エイリアン:コヴェナント」撮影を理由に「ブレードランナー2049」の監督をドゥニ・ヴィルヌーヴに任せ、自身は製作総指揮に退いたという報道に接した時は正直ほっとした。彼の手で「エイリアン」シリーズが堕落していくのを目の当たりにした以上、せめて「ブレードランナー」は救いたいと思ったシネフィルは多かったのではないだろうか。「灼熱の魂」「複製された男」「ボーダーライン」「メッセージ」と着実に独自の映像世界を開拓しつつあるヴィルヌーヴ監督なら素晴らしいリメイクになるだろうとみな期待したと思う。そして、その期待は裏切られなかった。しかも、次回作があの呪われたデビッド・リンチ監督の「デューン砂の惑星」のリメイクだからますます期待は高まる。でも、とりあえず、今回は、「ブレードランナー ディレクターズカット版」について。

よく知られているように、1982年に公開された「ブレードランナー」には、1992年のディレクターズ・カット版や2007年のファイナル・カット版(4Kデジタル・リマスター)などが存在する。今回、僕が見たのは1992年のディレクターズ・カット版。公開当時は、わざわざ同じ映画の異なるバージョンを見に行くほど暇ではないと思ったのでパスした。その後、加藤幹郎先生の「『ブレードランナー』論序説:映画学特別講義」(筑摩書房Lumiere叢書34)を読んでいたら、このディレクターズ・カット版を散々にけなしていてオリジナルのプロデューサーズ・カット版を中心に分析していたので、やっぱり見なくてよかったと安堵したのを覚えている。でも、まあ今回は、BSシネマの録画だし、「ブレードランナー2049」を観てちょっと1作目のことが気になっていたので、観ることにした。

感想。。。やはり「ブレードランナー」という映画は面白いと思う。ただ、その面白さの大半は、リドリー・スコットの演出と言うよりも、シド・ミードの近未来デザインにある。今観ても新しいし、それこそ押井守からスピルバーグに至るまで、この世界観はこの後のSF映画に大きな影響を与えた。多分、リドリー・スコット監督は、映画監督と言うよりもプロデューサー的な才能を持っている人なんだろうと思う。「エイリアン」の衝撃もその多くはギーガーの美術によるところが大きい。リドリー・スコット監督は、ただ暗い画面の中で暴力と性を描いていれば良かったわけだ。(但し、加藤先生の例えば詳細にわたる「瞳」の分析のように、魅力的な細部は多数あることは否定しないけど。)

30数年ぶりにこの映画を見返してみて、リドリー・スコット監督の限界がよく分かった。この映画では、様々な仕掛けが凝らされている。人間が作り出したにもかかわらず人間を超えた能力を持つレプリカントという存在。21世紀を予見させるバイオテクノロジーの発達と奇怪な人工生物や人工臓器。人工的に寿命を設定されたレプリカントの怒りと生き残るための戦い。人間そっくりのレプリカントを「処分する」ことを生業とするブレードランナーの憂鬱。自分のことを人間だと信じていて子供の時の記憶まであるにもかかわらず実はレプリカントだと知ったレイチェルの苦悩。

これだけの材料がそろっていれば、例えばレプリカントと人間は本当に区別できるのか(フィリップ K.ディックの原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」!)、レプリカントには魂があるのか(カズオ・イシグロの「私を離さないで」!)、被造物は創造主を許すことができるのか(コッポラ監督の「フランケンシュタイン」!)、作られた記憶はどこまでアイデンティティを保証するのか(ポール・バーホーベン監督の「トータル・リコール」!)と、いくらでもテーマを深掘りすることができるはずである。

しかし、リドリー・スコット監督は、この映画をレプリカント達の連帯と怒りと復讐の物語に還元してしまった。もちろん、最強のレプリカント戦士であるロイ(=ルトガー・ハウアー)は、ブレードランナーであるデッカード(=ハリソン・フォード)との戦いで、圧倒的に追い詰めた上で最後はデッカードを救い短い寿命を終える。その行為には、敵を救うことで自身の中のどこかにある人間性なり魂なりを救済したいというロイの思いが込められているかもしれない。ロイが座ったまま機能を停止し、抱いていた白い鳩が飛び立つ象徴的な場面も、様々な解釈がなされた.鳩は平和の象徴であり、キリスト教の図像学では神の使者である。でも、どうもこの最後の場面もとってつけた感が残ってしまう。

さらに言うと、ディレクターズ・カット版は、オリジナルのプロデューサーズ版からさらに後退している。これは加藤幹郎先生が詳細に分析しているので、入手できればぜひ原著に当たってほしいのだけれど(余談だけど、筑摩書房はぜひリュミエール叢書シリーズの文庫化を進めてほしい。これだけ良質な映画論のシリーズは絶やしてほしくない。)、大きなポイントは2つある。一つは、デッカードがピアノを弾くシーンでユニコーンを夢見るシーンが挿入されていること。この結果、映画の終わり近くで、同僚の刑事がデッカードの自宅前に残した折り紙のユニコーンの解釈が変わってしまい、「デッカード=レプリカント」説が広まることになった。もう一つは、オリジナル版では映画の最後の場面に使われていたデッカードとレイチェルの2人の逃避行の場面とボイス・オーヴァーが完全に削除されてしまったこと。この結果、最後のデッカードの独白「レイチェルがあとどれぐらい生きられるかは分からない。しかし自分があとどのぐらい生きられるかなど誰に分かるというのだろう。」が消えてしまい、二人の関係が曖昧に宙づりされてしまった。

加藤先生は、この2つの変更を、古典的ハリウッド映画のメロドラマの定石に反するものであり、また映画の一貫性が損なわれてしまったとして批判しておられる。僕も同感である。やはり、リドリー・スコットには何かが欠けている。それをなんとか救っていたのが、シド・ミードやギーガーなどのスタッフであり、プロデューサーだったわけだけど、彼が自らプロデューサーの役を引き受けてしまったことでコントロールが失われてしまったということだろうか。

こうやってみると、ドゥニ・ヴィルヌーヴ版の魅力が改めて浮き彫りになる。彼はまさに、ディレクターズ版でカットされた最後の場面から「ブレードランナー2049」の物語を始めるのだ。そして、オリジナル版では主題化されなかった「生殖」について、「魂」について、「記憶」についての思索を映画の中で展開する。新たな造形美と相まって、彼はオリジナル版を超えたリメイクを成し遂げたのだけど、それを語るのはまたの機会にしよう。

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