ピーター・ジャクソン監督「キング・コング」

何も新年早々、「キング・コング」でもないだろうと自嘲しつつ、年末のBSで録画していた「キング・コング」を観る。ピーター・ジャクソン監督が執念を燃やし、何度も挫折しながら遂に完成させたという曰く付きの映画。

ピーター・ジャクソンというと、「あ、ロード・オブ・ザ・リングの監督さんですね」というのが、普通の人の反応だろう。まあ、あれだけ売れたんだから、その反応は正しいと思うけど、僕はあまり「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズは好きじゃない。悪い映画ではないと思うけど(何と言っても、ケイト・ブランシェットが出ている)、どうも「みんなで力を合わせて世界を救おう」というノリについていけない。そもそも、戦闘シーンが長すぎる。僕にとってのピーター・ジャクソンは、何よりも、「さまよう魂たち」の監督なのである。

「さまよう魂たち」は、マイケル・J・フォックスが最後のきらめきを見せた作品で、しかも製作総指揮がロバート・ゼメキスだから面白くないわけがないんだけど、この作品でハリウッド・デビューを果たしたピーター・ジャクソンが、とても楽しく、とても愛おしく、ホラー・コメディを撮っている感じがよく出ていて好感が持てた。ゴシック・ホラーのテイストをきちんと踏まえつつ、マイケル・J・フォックスの軽いノリも活かし、さらに大人の愛も感動的に描くなんて芸当は、なかなか普通の監督にできるわけじゃない。これは只者ではないというのが、僕の第一印象だったのである。

で、そのピーター・ジャクソン監督が、子供の時に見て映画監督への道を志したという「キング・コング」をリメイクするというんだから、これは気になって当然である。でも、公開当時は仕事で忙しくて映画館に行けなかったんだよね。。。ということで、10数年後にリベンジを果たしました。

で、感想ですが、「よくぞ撮ってくれました!」というのが正直な印象です。普通の人が見たら、ただ長いだけの映画だと思うかもしれないけど(髑髏島が登場するまで映画開始から1時間かかる!)、私はいちいち納得して見てました。

まず、冒頭、大恐慌時代のアメリカの悲惨な状況と、その中でも何とか生き抜こうとするショー・ビジネスの芸人たちの姿がとても生き生きしている。ちょうど、ルーズベルト大統領のニューディール政策が始まった頃で、その一環としてアーチスト支援プログラムが始まったりするところも、さりげなく描きこんでいるんだよね。このあたり、ピーター・ジャクソン監督はきちんと調べているなと感心。失敗続きの映画監督が、投資家を騙しながら何とか映画を撮り続けようと画策する姿も舞台裏ネタを見ているようで楽しい。ハリウッド映画の歴史とは、映画監督vs資本家のばかしあいの歴史でもあるんだよね。

で、もちろん、定番通り、一行はボロ貨物船で出航し、髑髏島に向かうんだけど、ナオミ・ワッツ演じるアン・ダロウと脚本家のジャック・ドリスコルが恋に落ちていく様子も丁寧に描いていて良い感じです。時々、タイタニックのパロディ入れたりしつつ、決めるところはばしっと決めるところがピーター・ジャクソン監督の職人魂なのでしょうか。

もちろん、この映画の肝は、髑髏島到着後。おどろおどろしい原住民、巨大な壁とあちこちにミイラ化した骸骨、そして深い森林。荒れ狂う波と舞台装置は完璧である。シャーマンのような老婆の狂乱した演技が雰囲気を盛り上げる。B級感が高まります。

そして、アン・ダロウが原住民に拉致され、キング・コングへの生贄として捧げられ、それを追ってジャック・ドリスコルたち一行が森の中に分け入っていくというお馴染みの展開。ここからの古生物との遭遇やキング・コングと恐竜の死闘、さらに一行を襲う奇怪なクリーチャーたちの数々は、ピーター・ジャクソンの真骨頂ですね。オリジナルのキング・コング時代から特撮技術は格段に進歩しているから、これは監督にとってたまらない場面だと思います。オリジナル版のストップモーション・アニメも格調が高かったし、1976年リメイク版の実物大コング(当時は、ロボット技術を一部導入していた)も面白かったけど、やはりデジタル時代の特撮技術にはかないません。迫力のある特撮でした。それだけでなく、一行を襲う巨大昆虫や軟体動物の気持ち悪さもすごい!「夢が叶った!」と小躍りしながら撮影している監督の姿が目に浮かぶようです。

でも、この映画の最大の魅力は、ナオミ・ワッツとキング・コングの心の触れあいを描いている点にあると思います。オリジナル版では、どちらかというと「美女と野獣」という感じでキング・コングの一方的な愛が描かれている感が強かったし、1976年版では、ジェシカ・ラングとキング・コングとの絡みが少しエロチックに描かれていました。実際、1976年版を映画館で見た中学生の私は、その官能性にドキドキしたことを覚えています。(余談ですが、ジェシカ・ラングはこの映画でメジャー・デビューを果たすのですが、「キング・コングの恋人」というイメージに長く悩まされることになります。)

これに対し、今回、ナオミ・ワッツとキング・コングは、まさに「心を通わせ」ます。どうやって?と思う人は、是非映画を見てください。両者の掛け合いが、徐々に種を超えたコミュニケーション回路を作り出し、ついに心を通わせるに至る瞬間は、感動的ですらあります。ナオミ・ワッツがキング・コングと共に沈みゆく夕日を眺めて「きれい」と呟き、それをコングに伝えるために「き・れ・い」と繰り返す場面。もちろん、言語が通じるわけはないのですが、そこには何かを共有した2つの魂が、その想いを相手に伝え、感動を分かち合うことができるという確信が感じられます。

この心の通い合いは、舞台をニューヨークに移してからも繰り返されます。劇場から逃走したキング・コングを追って、真冬のマンハッタンを薄手の白いドレスだけで疾走するナオミ・ワッツの姿は例えようもなく美しく、キング・コングがまさに脚本家を殺そうとする瞬間、闇の中から「やめて」と言って白い姿を浮かび上がらせるナオミ・ワッツの立ち姿は神秘的ですらあります。さらに、ナオミ・ワッツとの再会に狂喜してマンハッタンを疾駆するキング・コングの躍動感、そしてセントラル・パークの凍結した池の上でスケートのように戯れる両者の親密感。このあたり、ピーター・ジャクソン監督のキング・コングに対する深い愛情を感じました。

もちろん、キング・コングは、軍に追われて高層ビルによじ登り、最後には戦闘機の機銃掃射を受けて墜落死します。オリジナル版同様、キング・コングが登るのはエンパイア・ステート・ビル。1976年版は世界貿易センタービルを選んだのですが、あんな無機的なビルを選ぶなんて信じられません。やはり、アール・デコを貴重にしたエンパイア・ステート・ビルは美しさが違います。

ビルの上で、キング・コングはナオミ・ワッツを守るために戦闘機と戦います。でも所詮は近代兵器と野獣の戦い。ただ一方的にキング・コングは銃撃を受けて弱っていきます。そんな中、一瞬、ナオミ・ワッツとキング・コングが朝焼けの美しい風景に目をやる場面が挿入されます。僕は、この場面に、ピーター・ジャクソン監督のこの映画に込めた想いが伝わってくるような気がしました。

長い歴史の中で、映画は、視線を同じ方向に向けながら、2つの魂が感動を共有する瞬間、両者の間に確実に何かが伝わるという事態を繰り返し描いてきました。それは、小津安二郎から世界中のあらゆる青春映画、恋愛映画に遍く見られる場面です。ピーター・ジャクソン監督は、髑髏島で両者が夕日を共に眺める場面を最後に反復することで、美女と野獣の報われない愛の物語を、言葉も通じず種も異なる二つの魂の交感の物語に読み替えました。そうすることで、監督は、「キング・コング」という物語を救済し、そこに新たな神話性をもたらしたかったのかもしれません。

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