ミシェル・ウェルベック著「プラットフォーム」

去年から、ミッショル・ウェルベックにハマっている。最初に読んだのが、イスラム政権フランス誕生という設定で物議をかもした「服従」。続いて、「闘争領域の拡大」「ある島の可能性」と読み継いできて、「プラットフォーム」で4作目になる。

本書のテーマは、タイを舞台にしたセックス・ツーリズム。いつものように、さえない中年の独身男性が主人公で、彼は資本家と知り合い、大きなプロジェクトに巻き込まれていく。いつものように、大した必然性もないけど、愛らしく献身的な女性と恋に落ちる。いつものように、随所に文化的、哲学的蘊蓄が散りばめられ、その合間に、他の登場人物を通じて、レイシスト的でマスキュリズム全開の差別的言辞が挿入される。唯一、今回の作品の特徴といえば、ほとんどポルノ小説といって良いぐらいの生々しいセックスシーンが頻出すること。まあ、セックス・ツーリズムがテーマだから仕方がないんだけど。。。

ウェルベックの作品の主人公は、ほぼ一貫している。文学好きで、あまり生活能力がなく、女性にもあまり相手にされずに娼婦を買ったり、マッサージ・サロンに通う中年の独身男性。彼の頭にあるのは、常にセックス。しかも、女性のことをセックスの対象としか考えていない。こういう主人公が、なぜかとても魅力的で生活力もある女性に愛されて、献身的に尽くされるというパターンも頻出。文学やアートの趣味はいいけど、それ以外はあまり愛されるキャラではない。

なんで、こんな男を主人公にした物語が、世界中で熱狂的に支持されるのか、正直よくわからない。多分、熱狂的に支持する読者層は、主人公と同じ境遇にいる独身男性だろう。「闘争領域の拡大」でいみじくも彼が明言したように、現代において、大半の男性は、恋愛によるセックスの機会も与えられないまま、老いていく。一握りの勝ち組男女だけが、セックスと家庭の幸福を謳歌するのだ。このような悲惨の状況を描きつつ、これに文学的蘊蓄と娼婦の濃厚なサービスの描写という付加価値をつけた点に、彼の作品の魅力があるのかもしれない。

そういう意味では、ミシェル・ウェルベックが好きだと公言するのはなんだか気が引ける。彼の作品を読むのは、同じ境遇にいる独身男性だけだろう。あえて付け加えれば、フェミニズム理論で武装した博士課程在籍の女学生か戦闘的なフェミニスト批評家が、格好の批判対象として取り上げるために読むぐらいではないだろうか。とはいえ、あまり大きな声ではいえないけれど、ウェルベックの作品は面白い。あまり認めたくないけど、もしかしたら、自分の中の隠されたセクシストやレイシストの部分が刺激されているのかもしれない。彼の作品は、夢中で読んでしまっている自分自身にも批評的な視点を持たされてしまうと言う、なんともやっかいな存在なのである。語られている内容も哲学的で文明史的だから、ますます複雑怪奇になっていく。

一方で、ミシェル・ウェルベックは、神なき時代において、信仰とか宗教を真剣に考えている作家だと言う気もする。言うまでもなく、「ある島の可能性」は、新興宗教をめぐる物語だし、「服従」もとてもシニカルではあれイスラム信仰をめぐる物語だった。

でも、ウェルベックの宗教性がはっきりと現れるのは、こう言った宗教をテーマとした舞台設定や登場人物の会話以外にあるのかもしれない。彼の作品では、常に主人公は、ある決定的な喪失を経験する。自分の心の拠り所とし、愛していた者が、突然、理不尽としか言いようのない暴力により奪われる事態をウェルベックは繰り返し描いている。さらに彼は、この喪失後に、何もかも信じられず、生きる意味さえも失ってさまよう主人公の姿を描く。そこには何の救済も啓示も回心もない。あるのはただ無意味な生のありようだけ。それは、例えば、プラットフォームの最後で次のように描かれる。

死、今、僕はそれを理解した。死が僕をひどく苦しめることはないだろう。僕は憎しみ、軽蔑、老衰、そしてさまざまなことを知った。また、ほんの一刹那、愛を知った。僕と言う存在は跡形もなく消える。僕と言う人間はこの世に跡形を残すに値しない。僕はどこからどう見ても平凡な人間だろう。

ミッシェル・ウェルベック「プラットフォーム」より

この言葉と、彼が冒頭に引用したバルザックの次の言葉は不思議と呼応しあっている。

人生がおぞましいものになればなるほど、人はそれにしがみつこうとする。よって生きるということはつねにひとつの抗議であり、不断の復讐なのだ。

オノレ・ド・バルザック

生きることに意味がなく、死にもまた意味がなければ、人間の生にどのような意味があるのだろうか。ウェルベックが描く性や文学・芸術も、このような徹底したニヒリズムの前では無力であり、ただ死から死へと続く生という名の時間の持続をやり過ごすための気晴らしに過ぎないのだろうか。ウェルベックは、このような問いを立て、この問いに抗いながらも、結局、喪失の果てに生の意味を見失う主人公を繰り返し描いてきた。しかし、逆説的に見れば、この問いの繰り返し自体が、神への捨てがたい想いを証しているのかもしれない。

そして、もしかしたら、このように幾重にも封印されたウェルベックの根源的な問いに共鳴しているために、僕らは彼の作品に惹かれてしまうのかもしれない。希望を見出すために?それとも、絶望を追体験していくために?この問いには行き場がないにもかかわらず、僕たちはこの問い自体に心が惹かれてしまう。かくてまた、人はもしかしたら次には答えが見つかるかもしれないという幻想を抱いてウェルベックの新作を手にとることになるのである。

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