レイモンド・チャンドラー著「水底の女」

村上春樹のレイモンド・チャンドラー新訳シリーズ完結版読了。

思い返せば、2007年の「ロング・グッドバイ」村上春樹新訳は衝撃的だった。清水訳に親しんでいた僕は、繊細な情景描写と、私立探偵風情には不似合いな文学的素養をのぞかせる新鮮なフィリップ・マーロウ像に魅せられた。村上春樹自身の解説によると、清水訳は、ハードボイルドの雰囲気を出すため、こうした魅力的な細部をどんどん省略して訳したらしい。おかげで、フィリップ・マーロウというタフガイは日本でもメジャーになったけど、チャンドラーが目指していた、社会に距離を置いて冷静にその不条理を観察しながらも否応なしにその理不尽に巻き込まれていく知的な精神世界は浸透しなかった。村上春樹訳は、既成のマーロウ像を打ち砕き、新たな人物造形を提示してくれた点で画期的だった。

それ以来、僕は、長編全7作の村上春樹訳を読み継いできて、これが最後の翻訳作品。第二次世界大戦の最中、1943年に出版された本書は、「高い窓」と「リトル・シスター」の中間に位置する作品。円熟したチャンドラーの筆致が味わえる作品ではあるが、正直言って、他の作品に比べると読後の充実感は薄い。

一つには、この作品があまりにもよくできた推理小説になっているから。高圧的な金持ちから失踪した奥さんを探して欲しいと依頼されて捜査に入り、行く先々でいかにも胡散臭い色男や、腐敗した暴力的な警官に脅されるといういつものパターン。さらにマーロウが動き出すことで過去の殺人事件が明らかになり、ついで第二第三の殺人が・・・という展開も定番である。筋立てが二転三転する中、最後にマーロウが真犯人を暴き出すまでのストーリー運びもよくできている。

でも、そこには何かが足りない。例えば、それは「大いなる眠り」のスターンウッド将軍、「ロング・グッドバイ」のテリー・レノックス、「さらば愛しき女よ」の大鹿マロイのような強烈なキャラクターがいないからかもしれない。別に男性でなくても良い。「リトル・シスター」のオファメイ・クェストのような、性格が破綻しているけど憎めない女性でも構わない。しかし、「水底の女」では、全ての登場人物がストーリーに従属していて、強烈な個性を発揮し切れていないという印象を受ける。唯一、精彩を放っているとすれば、老さらばえて田舎町でくすぶっているように見えながら、深く社会を見つめ、必要であれば果敢な行動に打って出る保安官代理のジム・パットンぐらい。でも、彼の出番は少ないんだよね。

もう一つ、物足りないのは、今回、マーロウが謎解きにこだわり過ぎているところ。他の作品では、例えば友情とか、依頼主への義理立てとか、あるいは単に自らのプライドをかけて権威に立ち向かうんだけど、今回は、そこのところが弱い。変な言い方だけど、悪徳警官に殴られたり、犯人の一撃で意識を失ったりするのがどうも中途半端で、なんだかまとまり過ぎているような印象がある。

と、いろいろ文句は言ってるけど、まあ、面白い作品でした。村上訳もところどころ「これは訳し込みすぎでは?」というところがあるけど、読みやすいし、リズム感を失っていない。

ところで、話が飛んでしまうけど、どうも僕は、物事がうまくいかなくなると、チャンドラーの作品に手が出てしまうようだ。たぶん、それは、権力を傘に来た警察とか、お金で魂を売ってしまった資産家とか、あるいは資産家にたかろうとするチンピラとかに罵られ、小突き回され、時には命まで狙われながらも、何か譲れない一線のために、最後まで真相を追求しようというマーロウの姿勢に惹かれるからなんだと思う。

日本みたいに同調圧力が強くて、しかも隅々まで利権が合法的に張り巡らされている社会では、フィリップ・マーロウのような存在はファンタジーにすらなり得ない。でも、やはり僕は、そういう人間がいることの可能性をどこかに感じたいのかもしれない。タフガイのマーロウよりも、怒りとある種のモラルをうちに秘めて、ささやかな希望にかけようとするマーロウという人物像に共感して、僕はまたいつかこのシリーズに戻ってくることになるだろう。性懲りもなく、だけど。。。。

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