吉田秀和著「グレン・グールド」

吉田秀和さんの本は全く古さを感じさせない。もちろん、扱っている作曲家や演奏家は昭和に活躍した人たちだから、情報自体は古い。でも、吉田さんの音楽への向き合い方がとても真摯だから、時代を超えて音楽の本質に迫る迫力を持っている。楽譜も読めない僕など、あまり良い読者とは思えないけれど、彼の著作から学ぶことは多い。

グレン・グールドもそんな一冊。クラシック好きで、グールドの「ゴールドベルク変奏曲」の2つのバージョンを聴き比べたことがない人間はいないと思う。この本は、彼の演奏が、いかにバッハ像を革新したかを見事に解き明かす。何と言っても、まだグールドが日本で話題になる前のドイツでのコンサート(結局、吉田さんは聴き逃すことになるのだけれど。。。)のエピソードから始まるから、歴史的なリアリティがある。

吉田さんによると、グールドのゴールドベルグ変奏曲は、当時の日本のクラシック批評家から散々に酷評されたそうだ。確かに、あの驚異的な速さの演奏は、当時のクラシック批評家が聴き慣れた「名演」とは決定的に異なるだろう。いつの時代でも、凡庸なエスタブリッシュメントは、変化を拒み、新たなスタイルの価値を認めようとしない。日本のように鎖国された島国の場合は特にそうだ。

これに対して、吉田さんは、バッハ演奏の歴史的意義を振り返りながら、グールドの演奏の画期的な価値を明らかにする。ちょっと長くなるけれど、引用しておこう。

チェンバロとピアノの決定的な違いは、チェンバロはレガートができないこと。それからピアノではタッチによって音色に多彩な変化が得られることにある。グールドの言葉を借りれば「さまざまなレジスターを持つが音の出し方自体には変化のないチェンバロは即興演奏により適している。ところがピアノとなると、やれることが多すぎて当惑せざるを得ない」。(中略)「車があなたを操縦するのではなくて、あなたが車を運転しなければならなくなる。バッハを弾く秘訣はそこにある。バッハでは反応の即時性と事物の微妙な決定をコントロールする能力が絶対に必要なのだ」。

グールドがバッハを弾くのを聴いていると、この「反応と即時性といろいろなタッチの微妙な決定の調節」がものすごく鋭敏に、しかも際立って高度の知能的な態度と技術の水準と緻密な音楽性とがからみあいながら、演奏の進展するさまがよくわかる。それに一面では極度にスリリングな魅力の源泉になっているが、一面では聴衆の全体の印象を統制のとれたものにする原因ともなる。

一言でいえば、グールドはランドフスカ以後、バッハをピアノで弾くのを再び可能にしたのである。

素晴らしい分析だと思う。理論ではなく、生の演奏を聴き続け、思考してきた吉田さんだからこそできる議論だろう。日本の閉鎖的風土の中で、周囲の否定的な評価に敢然と立ち向かった吉田さんの面目躍如が感じられる文章である。

でも、この本の最も素晴らしい部分は、演奏するグールドを初めて目にした吉田さんが記した文章である。よく知られているようにグールドは、初期の演奏会での成功後、早々にステージ・プレイヤーをやめ、スタジオで黙々とレコーディングを行う生活に入った。吉田さんは、二度も彼の演奏会に立ち合い損ねたために、グールドの演奏をレコードで聴くしかない時期をしばらく過ごすことになる。そんな吉田さんが、カナダの放送局が制作したグールドのドキュメンタリー番組を見て、初めてグールドの演奏スタイルを目にし、グールドの本質を掴み取る印象的な文章がある。吉田さんは、グールドの演奏を見ながら、グールドの演奏の急所が「あれ」にあることに気づくのだ。これも、長いけれど引用しておきたい

グールドはひどく凹んだ眼窩をもっていて、演奏中、ことにおそい楽段の時には、目をほとんど閉じっぱなしか、ごくまれに半開きにするくらいしか開けないので、まるで盲目のような印象を与えるのだが、そういう彼の顔を、悲しみというか悩みというか、名伏しがたく悲痛なものが走ってゆく瞬間がある。そうして、いったんそれに気がつくと、この公衆の席に自分の姿を現すのを拒絶しているピアニストは演奏しながら、何か私たちには見えないものの声をとらえ、それに導かれたり、それと問答したりするようにひいているのがわかってくるのである。

それは、よくあるように、自分の音を注意深くききながら演奏を続けるのとはちがう。(中略)彼の姿を見ていると、人間の目には見えない声に耳をすましていることがもっとはっきりしてきた。

この時になって、私はやっと、しかし今度はまったく疑問の余地のない確実さでわかった。彼が演奏会を拒絶するのは、公衆の現存が精神の集中を妨げ、みえざるものの声に耳を傾けるのの邪魔になるからである。

吉田さんは、この「何か」を、「音楽の塊」や「作品自体」と言い換えながら、グールドが、作曲家の精神と対話し、楽譜を辿りながらも彼自身がその「何か」と交歓しながら新たな作品をその場その場で創造していくさまを語っていく。グールドの演奏は、常に新たな音楽を作り出すプロセスだったのである。グールド自身の言葉を借りれば、「芸術の目的とは、一時的にアドレナリンを分泌させることではなく、生涯をかけて徐々に脅威と静穏の状態をつくりあげていること」であり、彼はまさにそれを無数の演奏の中で実践し続けたのだろう。その姿は、吉田秀和という、クラシック音楽に全身を捧げ、繰り返しその本質に立ち返りながら新たな魅力を見出し、人に伝えようとした稀有の評論家の姿にも重なって見える。何度でも読み返したくなる滋味にあふれた名文だと思う。

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