諏訪敦彦監督「風の電話」
諏訪敦彦監督の作品を観ることは、僕にとっていつも特権的な体験である。映画館の暗闇の中で、スクリーンの光と触れ合う。自分という存在が、スクリーンを見つめる瞳に還元され、映画と一体化する。僕の身体は希薄化し、武装解除され、輪郭が曖昧になり、そしてスクリーン上の登場人物の繊細な感情の揺れと共振し始める。生身の人間を前にしているわけでは決してなく、ただスクリーン上の影でしかない登場人物なのに、僕は彼または彼女の心のひだを触知し、その微妙な揺らめきに震えてしまう。僕と世界の境界が消失する中で浮かび上がってくるのは、情動(エモーション)の塊としか言いようのない何ものかである。
何が起こったのかわからないままに、僕は物語に捉えられ、今ここの現実世界からはるか長い旅を登場人物と共にすることになる。それは、贖罪の旅であり、浄化の旅であり、巡礼の旅であり、故郷への帰還の旅でもある。ただ数時間の物語でしかないのに、映画を観終わった後、僕という存在の中を何かが通過し、僕という存在が更新されているのを感じる。それはまるで、世界から深く隠された秘教の通過儀礼を思い出させる経験である。
「風の電話」もまた、こうした稀有な体験を味わうことができる映画である。物語は、ハルという17歳の少女をめぐって語り継がれていく。ハルは、東日本大震災で両親と弟を津波で失い、今は叔母を頼って広島の呉に暮らしている。叔母さんや近所の人が話しかけてもはっきりと返事ができず、いつも俯き加減に黙り込んでいる彼女の姿には、まだ震災の喪失感が色濃く身体に刻み込まれているようだ。
ある日、叔母さんが倒れて寝たきりとなる。これでハルは、決定的に孤独となってしまう。悲しみの中、ハルは制服姿のまま故郷の大槌への帰還の旅を始める。お金などない彼女は、ヒッチハイクで移動するしか方法がない。そこで、彼女はいろいろな人たちと出会い、時には励まされ、時には傷つきながら、故郷へと戻っていく。。。。
ハルの、ほとんど感情も見せず、ろくに話もしない表情が愛おしい。何か大きなものに侵食されてしまった後の虚脱や疲労が全身を覆っている。その姿は、バルネラブルとしか言いようのない、脆さと弱さを感じさせる。諏訪監督は、ハルの顔のアップを長回しで撮り続けることで、彼女の鬱屈した想いを画面に定着させていく。
でもだからこそ、ハルが感情を爆発させて悲しみの声を上げるとき、あるいは胎児の動きに触れて思わず驚きの表情を浮かべるとき、さらに同世代のクルド人難民の女の子と打ち解けて心からの笑顔を浮かべるとき、その情動の強度がそのまま画面上に立ち現れてくる。そこには、耳障りなBGMもこれ見よがしのセリフもない。何の演出もほどこされていない情動の塊がゴロンとカメラの前に投げ出されるだけだ。それが何とも心を打つ。人と人は、ただ無言のうちに見つめ合い、微笑みを交わしたり、涙を流すことで、感情の推移を感知することができるのだということを改めて実感する。
ハルが、道中で出会う人たちも決して幸福ではない。むしろ老母を介護したり、入管の収容所に拘留されている夫を待ち続けたり、ハルと同じように家族を震災で亡くして日本中を放浪していたり、周囲に反対されながらシングルマザーとして出産を決意したりと、悲しみを抱え孤独に生きる人たちばかりである。しかし、彼らはハルを暖かく迎え入れ、励まし、生きることの意味を教え、ハルを送り出してくれる。暗い物語のように見えるが、そこには確かに生きていることの手触りがある。いや、むしろハルは、こうした人たちと接することで、ゆっくりと生命を回復させていくと言った方が良いだろう。
彼らは、ハルに繰り返し語りかける。「生きている以上、食わなければならない。」「生き残った者は、死んだ者たちを記憶しておくために生き続けなければならない」「故郷がなくても、人は生き続けなければならない。きっといつかは故郷に戻れるのだから。」・・・。彼らは決して雄弁ではない。むしろ自分自身に言い聞かせる独り言のように語る。このように訥々と紡がれる言葉だからこそ、大きな力に押し流されそうになるハルの心に染み入ってくるのだ。
しかも、彼らは言葉以上の支援をハルに贈る。食事を与え、ハグし、語りかけ、そして見つめ返してくれるのだ。一人の傷ついた人間を前に人ができることはそれぐらいしかない。でも、そのささやかな身振りがハルにとってかけがえのない励ましになるんだと思う。
それだけではない。ハルは、この映画で、何度も横たわるだろう。絶望と孤独に耐えかね、疲れ果てて、ハルは地面に横たわる。無防備で、無力で、すべてを放棄したかのように、全身をさらして横になるハルの姿は痛ましい。しかし、その度に誰かが彼女に声をかけ、手を貸して立ち上がらせてくれるのだ。ハルが立ち上がるまでを長回しで捉え続ける映像の持続が本当に感動的である。それは、人が人を立ち直らせるという文字通りの無償の行いを映像化した稀有の場面だと言っても良い。人は、自分一人で生きているわけでもないし、自分一人で立ち上がるだけの強さをいつも持っているわけではない。徹底的に無力になった人間に再び立ち上がる力を与えるのは他者なのだ。
このような人々の支えを受けてハルは回復する。そして、ハルは自分の名前が本当は「春香」だと名乗ることができるようになる。人の名を聞き、自らの名を名乗ること。それは、ハルが自立した個人として、再び人と人との関係性を回復させたことを象徴的に示す感動的な場面である。
ハルの旅は、「風の電話」にたどり着くことで終わる。岩手県大槌町の海を見下ろす丘に設置された電話ボックスである。そこには、電話線が繋がっていないダイヤル式の黒電話が置かれており、人はその電話を使って亡き人と話ができるという。そこで、ハルは失った家族の声を聞くことができたのだろうか。そこでハルは何を語ったのだろうか。
風の電話が設置された電話ボックスに入ったハルを捉えた長回しの場面は、おそらく日本映画史に残る名場面として記憶されることになるだろう。それは、震災で家族を失った一人の少女の回復の物語という枠を超えて、死者と向き合うこと、死者と対話し彼らを記憶の中に留めつつ自らの生を責任を持って引き受けることについての、普遍的な思索が映像化されている。唐突だけど、僕は、エマニュエル=レヴィナスが提唱した「Responsibility=応答責任」という概念が、ここに露呈しているのを感じた。レヴィナスもまた、第二次世界大戦中にユダヤ人収容所で家族を失った経験を抱えて、生き残ってしまった者が生きる責任について徹底的に考え抜いた哲学者だった。
最後、この映画は、奇跡のような場面で幕を閉じる。そこで何が描かれているかはあえて語らないことにしよう。是非、映画を見て、自身の目で確認してほしい。ただ言えるのは、それが、色の氾濫であり、全身を満たすかそけき音の戯れであり、そして何ものか超越的な存在の顕現を触知させる一瞬の移ろいである、ということである。五感を研ぎ澄ませて、その最後の素晴らしい時間を経験してほしい。ハルの長く困難な旅は、こうして祝福に包まれて終了する。
もちろん、その後にも彼女の生は続くだろう。肉親を失って頼るべき者もない17歳の女の子がたどることになる人生が、生やさしいものになるとは思えない。しかし、ハルはそれを乗り越えることのできる何かを手に入れたと思う。そして、この映画を見て、ハルの情動に触れながら、彼女と旅を共にしてきた観客もまた、映画館を出たときに自分の中の何かが変容し、生に対するポジティブな感情が芽生えていることに気づくだろう。そう、過去の諏訪監督作品と同じように、この映画もまた特別な力を持っているのである。
美しい感想をありがとうございます。シェアさせてください。
諏訪さん、コメントありがとうございます。まだまだ書きたいことはたくさんあります。この映画ができるだけ多くの方に観ていただけることを願っています。