齋藤武市監督「ギターを持った渡り鳥」

BSで録画したまま放っておいた「ギターを持った渡り鳥」を観る。日活アクションシリーズは、もっぱら赤木圭一郎と宍戸錠ばかり追っていたので、実はこのシリーズを観るのは初めて。わざわざ映画館に行ってみるという感じでもないし、かと言ってビデオを借りることもないだろうから、BSさまさまである。詰まらなかったら途中で止めればいいやという軽い気持ちで見始めたけれど、結局、最後まで観てしまった。

物語は、わざわざ説明する必要もないだろう。元刑事で、今は流しのギター弾きをしている滝伸次(小林旭)が見知らぬ土地にやってきて、女性と出会い、街の黒幕を倒してまた別の街へと旅立っていくというのが基本的なプロットである。本作は、シリーズ第1作。舞台は北海道函館市。小林旭、浅丘ルリ子、宍戸錠の組み合わせ。監督は斉籐武市。

日活のプログラム・ピクチャーの面白さは、ひとえに演出のスピードとアクションのキレにある。本作も、いきなりバーでの派手な乱闘から始まり、そのまま街の黒幕との絡み、そして小林旭と浅丘ルリ子の出会いへとテンポよく進んでいく。宍戸錠の登場も、例によってとぼけた感じにどこか凄みを帯びているところが彼らしい。良い感じ。

たぶん、日活アクションシリーズについては、今までほとんどあらゆることが言い尽くされていると思うので、僕がこの一作を見て付け加えることは何もない。港町を舞台にした無国籍ロマン。街を仕切る顔役と犯罪の影。その中に純粋に生きようとする女たち。男たちの友情とライバル意識の微妙な交錯。。。。

グローバル化し、あらゆる人とモノと情報とカネが瞬時に移動していく現在の私たちには、たぶん50年代から60年代にかけてこのシリーズを映画館で観、日本という現実から束の間逃避して「外国」の香りを楽しんだ観客の実感は決して理解できないだろう。半世紀以上が経った現代に、日活アクションシリーズを見る意味とは何だろうか。ただ、クリシェとなった拳銃遣いやキザなセリフ、派手なアクションを楽しめば良いのだろうか。

そんなことをぼんやり考えながら、この映画を観ていて、一つ気になったことがある。彼らが取引しようとしていた麻薬はどこから来たのだろうか。船上で受け渡しているところをみると外国の組織と取引しているはずである。中国は大躍進政策の最中、朝鮮半島はまだ朝鮮戦争が終わってまもなく、それどころではない。そうすると、香港・台湾・マカオ・フィリピンあたりだろうか。いずれにせよ、共産圏ではなく、米軍が駐留していた「自由主義圏」が流通経路だったはずだ。それは、1955年体制が成立し、軽武装・経済発展路線を選択して、日米安全保障条約の下、米軍に軍事・政治・経済を依存しつつ高度成長を図ろうとした日本が、米軍を軸とした自由主義圏に所属することに必然的に伴う闇の世界だったのかもしれない。

そうすると、経済成長に突入しようとする日本社会に定住することを拒否し、街の裏を仕切るボスたちと戦いながら、純真な女性たちにのみ心を開く「ギターを持った渡り鳥」が別の相貌を帯びてくる。日本の戦後の発展が、米軍という圧倒的な暴力装置と、自由主義圏を支える裏の世界とのセットでの発展だったとすれば、おそらくギター持った渡り鳥シリーズは、そのような戦後日本の発展に絡めとられることを拒否した男の勝ち目のない闘争の記録だったのかもしれない。

閑話休題。本当は、ここまで書いて終わるつもりだったんだけど、しばらくぼんやりと考えていて、一つ思いついたことがあったのでメモしておく。

映画では、小林旭が元刑事、宍戸錠が神戸から来た密輸と殺し専門のヤクザという役回りである。宍戸錠は、最初、小林旭に気づかないのだが、銃を持って対峙した時、小林旭と以前に同じように対峙したことがあるのを思い出す。それは、神戸のことで、まだ小林旭は刑事だった。実は、小林旭は、宍戸錠の無二の相棒をその場で撃ち殺したのだ。しかも、背中をむけた相手を。。。

当然、宍戸錠は、小林旭に復讐のための決闘を挑むことになるのだが、その時に、宍戸錠が不思議なセリフを吐く。「お前は、なぜあいつを背中から撃ったんだ?手柄を焦ったのか、それとも他に理由があるのか。女か、そうなんだな。。。」。これに対して小林旭は何も答えない。謎は解消されない。しかし、この話は、多分、小林旭の隠された過去に関係しているのだろう。

もう一つ、謎がある。小林旭は、ギターを持った渡り鳥だから、当然、流しのギター弾きとして振る舞う。しかし、浅丘ルリ子紛する令嬢を訪問し、彼女がピアノでショパンを弾いているのを聞いて、彼は演奏の誤りを指摘するのである。その上、小林旭は、その部分を自らピアノで弾いて見せる。流しのギター弾き風情が、華麗にショパンのピアノ曲を演奏することに浅丘ルリ子は驚き、小林旭に「なぜあなたはショパンの曲なんて知っているの?」と聞く。これに対し、小林旭は、かつて付き合っていた女性から学んだのだと答える。そして、彼女は2年前に死んでしまったことも告げる。しかし、死因は明らかではない。

浅丘ルリ子は、そんな陰のある小林旭に惹かれていき、誕生パーティーに招待する。「ショパンを弾けるなんて、あなたは私と同じ世界の人間だわ」と無邪気に話しかける浅丘ルリ子に対し、小林旭は、「自分はあなたが思っているような人間ではなく、生きている世界が違うんだ」と言い返す。観客は、もちろん、小林旭が流れ者に落ちぶれていることを指しているのだと考えるだろう。

しかし、想像力をたくましくすると別のストーリーが浮かび上がってくる。おそらく、小林旭は、神戸市警で刑事として働いていた時、その亡くなった彼女と知り合ったのだろう。彼女からピアノの手ほどきを受けたのだから、それなりに親密な仲だったに違いない。小林旭は、彼女に理想の女性を見出し、恋い焦がれていたかもしれない。しかし、彼女には他に好きな男がいたのだ。それが、宍戸錠の無二の相棒だったとしたらどうだろう。小林旭は、嫉妬に狂い、彼女を手に入れようという思いを募らせた結果、刑事という職を利用し、犯罪現場を押さえるという名目で恋敵を背中から撃ち殺したのである。それを知って、彼女は自殺し、小林旭は全てに絶望して刑事の職を辞し、ギターを持った渡り鳥として放浪の旅に出たとしたら、この物語は少し違った風貌を帯びてくる。

もちろん、小林旭が刑事を辞職した表面的な理由は、映画の中で説明されている。小林旭の元上司が宍戸錠を追って函館にやってきて小林旭と偶然に再開した時、彼は小林旭に復職を勧める。その際に、小林旭が刑事の職を辞職したのは、神戸のヤクザの顧問弁護士が何かの理由をつけて小林旭のトガをでっち上げ、これが理由で刑事の職を追われた過去が言及される。もちろん、元上司は、小林旭に非がなかったことを十分に承知しているので、ほとぼりも冷めたしそろそろ戻ってこいと小林旭を説得する。しかし、小林旭は頑として首を縦に振らない。それは、彼が戻れない本当の理由は別にあることを意味していないだろうか。

このように考えてくると、この物語は、複雑な相貌を帯びてくる。小林旭が、浅丘ルリ子に「僕はあなたと違う世界にいるのだ」という時、彼の念頭にあったのは、自らの手で恋敵を殺してしまい、結果的に愛する人まで自殺に追いやってしまったという自分の侵した罪の深さだったのだろう。このような罪を背負った人間には、浅丘ルリ子のように純心で無垢な存在と共に生きることはできないという深い諦念がこのセリフに込められていたのである。

それはさすがに深読みに過ぎるでしょう、という人には、もう一つ、この解釈の傍証を挙げておきたい。小林旭と宍戸錠たちが麻薬取引に向かう船上で、小林旭がある曲をギターで奏でる。宍戸錠が、それを聞いて何の曲かと尋ねると、小林旭は「死者を弔う曲さ」と答えるのである。もちろん、観客は、そこで語られている「死者」はその前に殺し屋に溺死させられた船主のことだと考えるだろう。しかし、この曲を歌う小林旭のただならぬ寂寥感には、さらに深い鎮魂の想いが込められているように感じられる。その鎮魂は、自分が殺した恋敵と、結果的に自殺に追いやってしまった恋人の死に向けられていたののだろう。

もしかしたら、ギターを持った渡り鳥シリーズとは、日活アクションシリーズという軽さとスピードの背後に、このように幾重にも屈折した人間ドラマを伏在させた悲劇の物語だったのかもしれない。今度、時間が取れたら「渡り鳥」シリーズを追いかけてみよう。

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