ジョン・カーペンター監督「マウス・オブ・マッドネス」

少しBSシネマの作品が続いたので、気分を変えてiTunesの「マウス・オブ・マッドネス」を観る。ジョン・カーペンター監督作品。傑作の誉れが高い映画だとはかねがね聞いていたけど、こんなにすごいとは思わなかった。まさに悪夢のような傑作。

物語は、失踪した人気ホラー作家サター・ケインの行方を追うフリーランスの保険調査員トレントを巡って展開する。サター・ケインの作品は、世界中に翻訳されている超ベスト・セラーだが、読む者の精神を狂気に陥れると噂されている人物。既に、何件かの傷害・殺人事件が報道されている。

そんな中、彼の最新作は、出版前から傑作の噂が高く、映画化権も売られ、書籍も予約待ちの状態である。しかし、そのサター・ケインが失踪し出版がおぼつかなくなったため、出版社はトレントに捜査を依頼する。彼は、サター・ケインの担当編集者リンダと共に、ケインの探索を開始する。どうやら、彼はこれまでの作品の舞台となったボブズ・エンドという街にいるらしい。二人は、地図上にはないはずのボブズ・エンドに車を走らせる。そこで二人は悪夢の世界に巻き込まれていく。。。

この作品は、1994年の作品だから、ホラー映画はスプラッタの時代に入りつつあった。雰囲気ではなく、ビジュアルに怖がらせる時代である。カーペンター自身、既にハロウィン・シリーズや、ゼイリブ、遊星からの物体Xなどの作品で奇怪なクリーチャーやエイリアンを登場させている。もちろん、「マウス・オブ・マッドネス」でも、同じようなクリーチャーが登場する。でも、この作品の怖さはそこにはない。現実世界が徐々にホラー小説の世界に侵食され、何が現実で何が空想の世界かが徐々に分からなくなっていく恐怖が、この映画の主題である。しかも、それを徹底的に視覚化する。これは怖い。

例えば、二人がボブズ・エンドに向かって夜のハイウェイを車で走る場面。漆黒の闇の中をただ車が走っていく。真夜中の人気のない荒野なのに、なぜかハイウェイを自転車で走っている女性がいる。しかも、一度追い越したのに再び現れる。そして・・・。

あるいは、トレントが本屋でケインのホラー小説を購入する場面。本を物色しているトレントのそばに、顔色の悪い青年が近寄り、「あなたは彼に会えるだろう」といきなり話しかける。青年の顔には、血の涙がゆっくりと滴り落ちる・・・。

決して恐ろしいモンスターが現れるわけでもなければ、J-Horrorが得意とするように暗闇から奇怪な幽霊が飛びしてくるわけでもない。ビジュアルで言えば、「マウス・オブ・マッドネス」の映像は、ごく古典的な恐怖表現でしかないだろう。でも、こうしたエピソードを積み重ねていくことで、カーペンター監督は現実世界が空想世界に侵食されていく様を「リアル」に表現する。その手腕は鮮やかである。

果たして、トレントは、ボブズ・エンドでケインに会えるのだろうか。そこで、トレントはどのような体験をするのだろうか。そもそもケインが執筆しているという最新作には何が書かれているのだろうか。それは、ぜひ実際に映画を見て体験してほしい。現実と虚構の境界がなくなり、世界が狂気に包まれて崩壊していく恐怖を描いた作品の中でも、この作品は秀逸である。これを見てしまうと、新感染シリーズやWorld War Zのようなゾンビ映画など、いくらスペクタクルな映像を重ねても所詮はテーマパーク的娯楽でしかないことを実感する。映画は、かつて、このような形で世界の変容を語ることができたのだ。やはりカーペンター監督は偉大である。

蛇足だけど、スピリチャル系のシネフィルとしては、やはりこの作品の宗教性が気になる。映画の中で、登場人物の一人は聖書について語る。そして、ケインのホラー小説の発行部数は、既に聖書の発行部数を超えており、さらに映画化されてより多くの人たちが観るようになればそれは人々の信仰になるだろうと予言する。

あくまでも、幻想世界を受け入れようとしない現実主義者のトレントは、ケインのホラー小説の狂気が世界を侵食していくことを認めようとしない。しかし、そんな彼には「皆がそれを現実と考えるようになれば、それは現実になる。その現実を最後まで認めようとしない者にとって、その世界は悪夢のように悲惨なものとなるだろう。」という言葉が投げかけられる。その悪夢は、どのようなものだろうか。気がついたら、世界がある決定的な変容を遂げていることを知った時の恐怖はいかなるものなのか。実は、その悪夢は、宗教が構築する世界観と紙一重のものではないのか。

「マウス・オブ・マッドネス」は、私たちの生きている世界のリアリティが実はとても壊れやすく曖昧なもので、超越的な存在から見れば実体のない幻影のようなものかもしれないのではと疑問を投げかける。そして、あなたの人生は、もしかしたら誰かの想像力が生み出したものでしかなく、あなたの未来も既にその想像力が書き記し決定されているのかもしれないと囁きかける。実はこうした考え方は多くの宗教が繰り返し語ってきた世界像である。プロテスタントの宗教革命は、全てが神によって定められており、神の僕たる人間にはその決定に介在する余地などないのだという絶望的な運命論を受け入れることから出発した。イスラムでも、同様の決定論は存在する。では、その神が慈悲深い救済の神ではなく、実は邪悪な意志を持った破壊神だったとしたら。。。

その時、「マウス・オブ・マッドネス」の恐怖は、単なるホラー映画やパニック映画の恐怖を超えて、実存的な不安となる。自分が現実だと考えていたこの世界が、知らないうちに変容を遂げ、何者か邪悪な存在の意のままに崩壊していく。これを食い止めようとする自分自身は、実はその変容を起動させる物語の中に既に書き込まれている存在でしかない。自己と世界の存立基盤が根底から崩壊し、トレントはただ一人取り残される。ボブズ・エンドでトレントが覗き込んだ暗闇は、深く果てしない。さらに、その闇は、どうやら映画館の闇につながっているようだ。。。

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