森村泰昌著「自画像のゆくえ」

森村泰昌さんの「自画像のゆくえ」を読む。言うまでもないけれど、森村さんはセルフポートレイト写真シリーズを手がける現代アートの第一人者。世界のどこの現代美術館でも、確実に森村さんの作品はコレクションに入っています。有名なところでは、「西洋美術史になった私」でモナリザになったり、「日本美術史になった私」で写楽の役者絵に扮したり、女優になった私でマリリン・モンローに扮したりしています。最近は、「なにものかへのレクイエム」シリーズで、市ヶ谷自衛隊基地で檄を飛ばす三島由紀夫に扮して話題を呼びました。これは、写真ではなく、ビデオなんだけど、雰囲気をうまくつかんでいて秀逸でした。昨年は、さらに大阪にモリムラ@ミュージアムを開館。まさに破竹の勢いのアーチストです。

余談だけど、僕は初めて森村さんの作品に接した時、これ、シンディー・シャーマンのパロディ?と思いました。まあ、セルフ・ポートレイトといえば彼女が先駆者だから二番煎じといえばそうなのですが、シンディがフェミニズムを強く打ち出して物語性を深めていったのに対し、森村さんは女装、お笑い、パロディに文明批評と活人画を盛り付けるという独特の世界を築いて今や国際的に認知される第一人者になりました。なんか、凝り方がすごいんですよね。個人的には、やはり関西人のこってりした笑いの方が世界の舞台で戦えるものを持っているような気がします。。。。

そんな森村さんが、今回、まさに80年代から30年以上にわたり追求してきたセルフポートレイトという手法を、「自画像とは描かれた西洋の精神である(のか?)」という壮大なテーマの下、西洋絵画史と日本絵画史を縦横無尽に論じたのが本書です。普通の新書ではありえない600ページを超す分量なのですが、ほとんど一気に読み切ってしまえる快著でした。

なんと言っても、取り上げている画家が半端じゃないのです。ファン・エイク、アルブレヒト・デューラー、レオナルド・ダヴィンチ、カラヴァッジョ、ベラスケス、レンブラント、フェルメール、ゴッホ、フリーダ・カーロ、アンディ・ウォーホルと並べられたら、アート好きは心が動きますよね。それぞれ時代を画する偉大な画家ばかり。

しかも、森村さんの語り口が鮮やかなのです。例えば、レオナルド・ダヴィンチの有名な自画像を取り上げて、ダヴィンチはこの自画像よりもよほど美男子だったと史実を振り返り、実は、この有名な自画像は後世のダヴィンチ再評価の中で作り出された新たなダヴィンチ像であり、決して本人に似ているわけではないと結論づける。しかも、最後は、このダヴィンチの公式ポートレートがモデルとなり、ダーウィン、トルストイ、レーニン、フロイト、伊藤博文・・・などの「歴史を彩るヒゲオヤジたち」路線として現代にまで脈々と伝わっているとオチをつけるところなどは、快哉の一言に尽きます。

こうして「西洋精神の探究の歴史」であるはずの自画像論は、どんどん読み替えられて、巨匠たちの精神分析やミステリー解読へと変貌を遂げていきます。自画像を一枚も描かなかったはずのフェルメールですが、実は彼の作品は風景画や女性のポートレートも含めてすべて彼の知られざる内面を表すポートレートであり、ただ一枚、「牛乳を注ぐ女」だけは、真の実在の女性のポートレートなんだけど、実はそこにもひそかにフェルメールは自分の姿を書き込んでいる・・・なんて分析、普通の美術史では絶対に読めないですよね。森村さん、推理作家になっても結構、成功したのではないでしょうか。

こんな風に、自画像を切り口に錚々たる画家たちの知られざる姿を分析していくのが本書の魅力なのですが、でも最後は返す刀で、森村さん自身のセルフ・ポートレートが描き出されます。これが泣けます。彼の不遇だった青春時代が語られるだけでなく、夭折の画家、松本竣介が残した「例へ私が何事も完成しなかったとしても正しい系譜の筋として生きるならば、やがて誰かがこの意思を成就せしめるだろう。」という言葉を真摯に引き受け、日本の絵画が「普遍妥当性」をもって世界のアート・シーンに受け入れられるために何をすれば良いかという森村さん自身の想いにつながっていくからです。

森村さんは、松本が残した言葉の帰結が、グローバリズムの中でいかに成功するのかというノウハウに精通することや、世界に通用する売れっ子作家として世界のアートフェアーでいかに作品が高額で売買されるかというサクセス・ストーリーに収斂してしまうのであれば、それは松本の意に反しているだろうと断言します。そうではなく、松本が提起した「普遍妥当性」を目指すというところにもう一度立ち戻って、自分の立ち位置を確認することが必要ではないかと問いかけます。そこから、森村さんは、松本竣介の「立てる像」をベースにしたセルフポートレート作品制作について語り出します。少し長いけど、引用しておきましょう。

松本竣介ら、日本近代の洋画家たちが、「普遍的妥当性」をめざして懸命に絵を描いていた”あのころ”。高校生の私がはじめての油絵を描き、美術の世界の扉を開こうとしていた”あのころ”。そして、あれからずいぶん遠いところまであゆみつづけてきた現在の私の”ここ”。それら三つの異なる時間と場所がまじわる交点に立つ。それを《私の、立てる像》としてあらわしてみる。

首尾よくそれがなされたかどうかはわからないが、大正から昭和初期にかけての時代の”踊り場”、竣介が苦悩した戦中と戦後のはざまとしての”踊り場”、時代のおおきなかわり目である現代という”踊り場”。それらがかさなりあう、特別な場所をさがしだそうとする試みが、私にはどうしてもいま必要だった。

おかしいなと思ったら、階段をそれ以上はあがらずに、踏みとどまるべきである。もときた”踊り場”までたちもどり、そこから何度でもでなおしてみるべきである。

なるほど、そんなことをしていては、なかなかさきにはすすめないだろう。しかし芸術の価値のありかは、かならずしも完成させることにあるとはかぎらない。青木繁から松本竣介にいたる、私の好きな画家たちがそれを教えてくれる。

とても誠実で、肩に力を入れてないけれども時代ときちんと向き合い、真摯に自分を見つめ直して新たな世界を作っていこうという気迫が感じられる文章だと思います。芸術について語りながら、現代日本社会の閉塞感にも一石を投じようとしている気もします。僕は、今までも、森村さんの作品がとても好きで機会があれば追っかけていたけれど、本書を読んでさらに森村さんの魅力にハマってしまいました。今はただ、新型コロナ・ウィルスの騒動が一刻も早く収束し、原美術館の「森村泰昌:エゴオブスクラ東京2020ーさまよえるニッポンの私」が再開されるのを願うのみです。

余談ですが、本書は、光文社の編集者から2000年に最初の打診があったそうです。それから約20年間、編集者はひたすら待ち続けて、ようやく本書が誕生したとのこと。一冊の本が完成するまでに、20年なんて、今の日本では多分考えられない気が遠くなるような待機と忍耐だと思う。それを可能にした光文社、見直しました。光文社には、古典新訳文庫でも結構お世話になってるので、これから少し応援していきたいですね。

シェア!

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。